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{張超之}……爲[#二]亂兵所[#一レ]殺。割[#レ]腸胯[#レ]心。臠[#二]剖其肉[#一]。諸將生[#二]※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]之[#一]。焚[#二]其頭骨[#一](『宋書』卷九十九、二凶傳)。
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これが當時の記載である。
 『資治通鑑』貞觀十七年(西暦六四三)の條に、太宗がその猛將丘行恭が逆臣の心肝を食したことを責めて、
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※[#「(樗−木)+おおざと」、166−15]尉游文芝。告[#二]代州都督劉蘭成謀反[#一]。……蘭成坐[#二]腰斬[#一]。右武侯將軍丘行恭。探[#二]蘭成心肝[#一]食[#レ]之。上聞而讓[#レ]之曰。蘭成謀反。國有[#二]常刑[#一]。何至[#レ]如[#レ]此。若以爲[#二]忠孝[#一]。則太子諸王。先食[#レ]之矣。豈至[#レ]卿邪。行恭慙而拜謝。
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とある。太宗の見識は流石であるが、唐一代を見渡すと、依然としてこの野蠻な私刑(?)が、實行され又は默許された。玄宗時代の宦官揚思※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]が、賊臣に内通した官吏を處分した時の状況が、『舊唐書』に「探[#二]取其心[#一]。截[#二]去手足[#一]。割[#レ]肉而啖[#レ]之」(卷百八十四、宦官傳)と記されてある。徳宗時代の大將李懷光は、その養子の石演芬が、己に反對するのを怒つて、その左右に命じて之を臠食せしめんとした(『資治通鑑』唐紀四十六、興元元年の條、『舊唐書』卷百八十七、下、忠義傳)。されば Solayman の傳ふる所(※[#ローマ数字I、1−13−21])は悉く事實と認めねばならぬ。隋唐時代の支那人は反逆者を殺して、その肉を食したことも事實であれば、彼等は病死の者を除き、杖殺された又は斬殺された者の肉を、平氣で食用したことも事實である。
 支那人の Cannibalism の實例を擧ぐる場合に、決して隋末唐初に出た朱粲のことを逸してはならぬ。彼は劇賊の首領で、二十萬の部下を率ゐて中原を横行し、到る所で居人を掠奪殺戮して粮食に充てた。『舊唐書』にこの事實を次の如く記述してある。
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{朱粲}軍中※[#「(聲−耳)/缶」、第4水準2−84−70]竭。無[#レ]所[#二]虜掠[#一]。乃取[#二]嬰兒[#一]蒸而※[
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