「時州郡大饑。米石二千。人相食。老弱相[#二]棄道路[#一]。」(『後漢書』安帝本紀註)
同三年(一〇九)三月 「京師大饑。民相食。……詔曰。朕……至[#レ]令[#下]百姓饑荒。更相※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食[#上]。永懷[#二]悼歎[#一]。」(『後漢書』安帝本紀)
同三年(一〇九)十二月 「并涼二州大饑。人相食。」(同右)
桓帝元嘉元年(一五一)四月 「任城梁國饑。民相食。」(『後漢書』桓帝本紀)
桓帝永壽元年(一五五)二月 「司隷冀州饑。人相食。」(同右)
靈帝建寧三年(一七〇)正月 「河内人婦食[#レ]夫。河南人夫食[#レ]婦。」(『後漢書』靈帝本紀)
獻帝興平元年(一九四) 「是歳穀一斛五十萬。豆麥一斛二十萬。人相食啖。白骨委積。」(『後漢書』獻帝本紀)
獻帝建安二年(一九七) 「是歳饑。江淮間民相食。」(同右)
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 就中王莽の末年天下騷擾の際に、Cannibalism が尤も廣い範圍に行はれた。『後漢書』卷六十九あたりの列傳を一瞥しても、容易に當時の光景を想像することが出來る。三國兩晉以來隋唐時代にかけても、支那人の Cannibalism の證據は澤山見える。一々の歴擧は餘りに煩雜なるを恐れて見合せ、その泰甚なる實例四五だけを紹介したい。東晉の末に孫恩といふ海賊があつて、東南沿海地方を暴掠し※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた。彼は各地方の縣令を擒にすると、その肉を醢にして縣令の妻子に食はしめ、躊躇する者は支解した――「醢[#二]諸縣令[#一]。以食[#二]其妻子[#一]。不[#二]肯食[#一]者。輙支[#二]解之[#一]。」(『資治通鑑』晉紀三十、隆安三年の條)――といふ。慘酷至極の話ではないか。
 君に反き上に逆ふ不忠の輩は、之を殺戮してその肉を食ひ、若くは官民をしてその肉を食はしむることは、支那の古代から實行されて居つて、決して珍らしい事實でない。隋の煬帝が叛臣の斛斯政を捕へて之を誅戮し、その肉を烹て、百官をして之を食せしめた。百官の或る者は、成るべく多量にその肉を飽食して、煬帝の歡心を買つたといふ(『資治通鑑』隋紀六、大業十年の條)。やや事情を異にするが、宋の文帝を弑して、一時帝位を簒つた劉劭の羽翼となつた張超之は、やがて失敗すると、將校士卒の爲に殺害せられ、且つ彼等の餌食となつた。
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