#「口+敢」、第3水準1−15−19][#レ]之。因令[#二]軍士[#一]曰。食之美者。寧過[#二]於人肉[#一]乎。但令[#二]他國有[#一レ]人。我何所[#レ]慮。即勒[#二]所部[#一]。有[#二]略得婦人小兒[#一]。皆烹[#レ]之分給[#二]軍士[#一]。乃税[#二]諸城堡[#一]。取[#二]小弱男女[#一]。以益[#二]兵粮[#一](卷五十六、朱粲傳)。
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 有名なる顏之推の子の顏愍楚は、朱粲の軍に囚はれてその幕僚となつたが、後に軍中食に乏しくなると、彼の一家を擧げて朱粲に※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]ひ盡されたといふ。彼は人から人肉の滋味を聞かれた時、「若※[#「口+敢」、第3水準1−15−19][#二]嗜[#レ]酒之人[#一]。正似[#二]糟藏猪肉[#一]」と答へて居る。誠に驚くべき食人鬼ではないか。

         四

 古來支那で革命の起る際には、國内の秩序が立たず、又擾亂の爲に農耕が廢して、穀物が缺乏するから、自然人肉の食用が盛に行はるるのが一の慣例となつて居る。既に東漢の王充が、「敗亂之時。人相啖食」(『論衡』卷二十、論死篇)と公言した程である。就中唐の末期に、この蠻風が前代の慣例以上に甚しく流行した。この事實が當時支那に往來した、マホメット教徒の見聞に觸るるのは、當然と申さねばならぬ。今試に『資治通鑑』に據つて、〔Abu^ Zayd〕 の時代に當該する、四十年間に起つた食人肉に關する記事を左に開列する。勿論こは『資治通鑑』一書に見えた記事のみで、他の公私の記録を廣く渉獵したものでないから、必しも當時に於ける人肉食用の事實を、悉く網羅したものでないことを、特に附記して置く。

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年代 「記事」
(1)[#「(1)」は縦中横]唐僖宗中和二年(八八二)四月 「長安城中。斗米直三十緡。賊賣[#二](買?)人於官軍[#一]以爲[#レ]糧。官軍或執[#二]山寨之民[#一](良民避[#レ]亂入[#レ]山築[#レ]柵自保者)鬻[#レ]之。人直數百緡。以[#二]肥瘠[#一]論[#レ]價。」
(2)[#「(2)」は縦中横]僖宗中和三年(八八三)六月 「時民間無[#二]積聚[#一]。{黄巣}賊掠[#レ]人爲[#レ]糧。生投[#二]於碓磑[#一]。併[#レ]骨食[#レ]之。號[#二
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