叔敖弗[#レ]欲。曰。……戰而不[#レ]捷。參之肉其足[#レ]食乎。參曰。……不[#レ]捷。參之肉將[#レ]在[#二]晉軍[#一]可[#レ]得[#レ]食乎。
[#ここで字下げ終わり]
と記載してある。『戰國策』の中山策の條を見ると、中山の君がその臣下に外國に内通する噂ある者に對して、吾食[#二]其肉[#一]。不[#二]以分[#一レ]人と申して居る。此の如き不忠なる者には殺戮を加へ、その肉は自分一人にて飽食するといふことで、惡むこと甚しき意味を述べたものであらう。齊人魯仲連が邯鄲城内で、趙をして秦を尊んで帝を稱せしむべく運動中の、梁の將軍新垣衍に面會して、その運動の不可なる所以を説き、「吾將[#レ]使[#三]秦王。烹[#二]醢梁王[#一]」と申して居る(『史記』卷八十三、魯仲連傳)。秦の帝となり天下を統一した曉には、趙や梁(魏)の國王の生殺の權は、秦王の掌握に歸すといふ意味である。此等の記事を以て、當時の支那人が人肉を食用した、直接の證據に供することは、或は多少早計かも知れぬ。併し此の如き食[#レ]肉とか醢[#レ]肉とかいふ言顯法の慣用さるることは、その根柢に、人肉食用の事實の存在を前提とせねば、理會し難いと思ふ。かかる文句の疊見することは、やがて古代の支那人間に、Cannibalism の行はれた、間接の證據に供して差支あるまい。
東周の定王の十三年(西暦前五九四)に、楚の莊王が宋を圍んだ。宋軍は糧食空乏して、遂に和を願ひ出でたが、『左傳』にその事を記して、
[#ここから2字下げ]
敝邑易[#レ]子而食。析[#レ]骸而爨(宣公十五年)。
[#ここで字下げ終わり]
といひ、『列子』の説符篇に同一事を記して、
[#ここから2字下げ]
楚攻[#レ]宋圍[#二]其城[#一]。民易[#レ]子而食[#レ]之。析[#レ]骸而炊[#レ]之。
[#ここで字下げ終わり]
といふ。『戰國策』の齊策に、齊の田單が聊城に燕軍を攻圍した時の有様を記して、食[#レ]人炊[#レ]骨とある。秦漢以後の記録にも、よく此等と同一、若くは類似の文句が見當る。此等の文句は何れも城守困乏の甚しき状況を形容したものとも解し得るけれども、後世飢饉の際に、支那人は彼此その子を易へて食に充てた實例に照らすと、又籠城久しきに亙る場合、支那人はよく人肉を糧食に供した實例に照らすと、此等の文句は、單なる形容以上に、幾分の
前へ
次へ
全54ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング