くり」、第4水準2−78−93]王の軍が燕に侵入した時、燕の奸臣子之を醢にしたといふ(『史記集解』燕世家の註に引く所の『汲冢周書』)。人肉食用の風習の存在を承認せずには、人肉を醢にするといふ記事を了解することが六ヶ敷い。
 『韓非子』に、
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桓公好[#レ]味。易牙蒸[#二]其首子[#一]而進[#レ]之(二柄篇)。
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といひ、又、
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易牙爲[#レ]君主[#レ]味。君之所[#レ]未[#二]嘗食[#一]。唯人肉耳。易牙蒸[#二]其首子[#一]而進[#レ]之。君所[#レ]知也(十過篇)。
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といふに據ると、桓公はその嬖臣易牙の調理した、子供の肉を食膳に上せて、舌鼓を打つたものと認めねばならぬ。
 晉の文公は天下を周游した際、齊に往き桓公の女を娶つて、茲に一生を託せんとした。彼の舅にして從臣たる狐偃は之を憂ひ、彼に酒を勸め、その沈醉中に齊を引き拂つた。酒覺めて後ち、此の處置に不滿を懷いた文公は狐偃を罵つて、「吾食[#二]舅氏之肉[#一]其知[#レ]厭乎」(『國語』晉語四)といひ、之れと對して狐偃は、「偃之肉腥※[#「月+繰のつくり」、第3水準1−90−53]。將焉用[#レ]之」(同上)と申して居る。この問答の裡にも、髣髴として當時食人肉の風習の存在せしことを肯定せしむるではないか。しかのみならず文公はその周游中、食盡きた時に、從臣の一人なる介子推の股肉を食して飢を凌いだことが、『莊子』の盜跖篇に、
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介子推至忠也。自割[#二]其股[#一]。以食[#二]文公[#一]。
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と記してある。
 晉の文公の子襄公の時、晉が秦と兵を交へた。秦軍大敗してその大將の百里奚孟明視等が捕虜となつた。秦の方では襄公にこの孟明視等の引渡しを願つて、自分の手で嚴重な處分を加へたい希望を申出た。『左傳』の僖公三十三年の條に、その事實を「寡君若得而食[#レ]之不[#レ]厭」と記してある。秦の君(穆公)が、孟明視等の肉を食うても、飽き足らぬ程怒つて居るといふ意味である。又楚の莊王の時、楚が晉に會戰することの可否に就いて、楚の令尹たる孫叔敖と、莊王の嬖臣の伍參と、意見を異にして爭論せし有樣を、『左傳』の宣公十二年の條に、
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嬖人伍參欲[#レ]戰。令尹孫
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