ら現時に至るまで、上下三千餘年に亙つて、繼續的に Cannibalism の蠻習をもつて居る。恐らく世界の中で支那人程、豐富な Cannibalism の史料を傳へて居る國民は他にあるまい。古代から支那人が食人肉の風習を有したことは、經史に歴然たる確證が存在して、毫も疑惑の餘地がない。『韓非子』の難言篇に據ると、殷の紂王は自分の不行跡を諫めた人々を罪し、翼侯を炙とし、鬼侯を※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]とし、梅伯を醢にしたといふ。炙は人肉を炙ること、※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]は人肉を乾すこと、醢は人肉を※[#「くさかんむり/坐」、第4水準2−86−26]《きざ》み、麹や鹽を雜へて酒漬にすることで、何れも人肉を食用に供することを前提とした調理法に過ぎぬ。紂王は又文王の子の伯邑考といふを烹て羹《あつもの》となし、その羹を文王に食せしめたといふことで、西晉の皇甫謐《クワウホヒツ》の『帝王世紀』――『史記正義』の殷本紀の注に引く所に據る――に、
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文王之長子曰[#二]伯邑考[#一]。質[#二]於殷[#一]。爲[#二]紂御[#一]。紂烹爲[#レ]羹賜[#二]文王[#一]曰。聖人當[#レ]不[#レ]食[#二]其子羹[#一]。文王食[#レ]之。紂曰誰謂[#二]西伯聖者[#一]。食[#二]其子羮[#一]尚不[#レ]知也。
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と記してある。
『帝王世紀』や『韓非子』は、殷末を距ること遠い記録で、それらの記事は、その儘に信憑出來ぬとしても、春秋戰國時代に降ると、支那人間に食人肉の風習の行はれたことは、その當時の記録に明記されて居つて疑ふことが出來ぬ。第一春秋の霸者を代表する齊桓晉文、何れも人肉を食用した。齊の桓公が魯國に對して、その仇敵たる管仲の引渡しを要求した時の口上を、『左傳』の莊公九年の條に、「管仲讎也。請受而甘心焉」と記してある。『史記』の齊世家に同一事を、「請得而醢[#レ]之」と記して居る。怨ある人若くは罪ある人の肉を醢にすることは、春秋戰國時代を通じて、支那では決して稀有でなかつた。例へば宋人が宋の閔公を弑した南宮萬や猛護を醢にしたことが、『左傳』莊公十二年の條に見えて居る。孔門の子路が衞國の内亂の際に、その反對黨の爲に殺されて肉を醢にせられ(『禮記註疏』卷六、檀弓上)、又齊の※[#「さんずい+緡のつ
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