殺した。不武の甚しきもの、武廟に列すべき資格がないとて之を排斥した。さきの神武不殺といふ句と對照すると、武の本意がよく發明される筈と思ふ。
春秋五霸の一人にも數へられる宋の襄公は、楚と泓といふ河の邊で戰をしたことがある。宋の軍勢は敵軍の河を濟る最中を攻撃せんとした時、襄公は君子は人の困厄に乘ず可らずとて之を許さぬ。やがて敵軍が河を濟り終り、未だ陣を布かざるに乘じて、宋軍が攻撃を開始せんとした時、襄公は復た禮に背けりとて之を許さぬ。敵の用意整へるを待つて、堂々と戰を開いたが、却つて宋軍敗亡いたし、襄公自身も痛手を負ひ、遂に之が爲に落命したことがある。いはゆる宋襄之仁とて、後世の物笑の一となつて居るが、併し『公羊傳』を見ると、當時の世評は非常に襄公を褒めて、たとひ戰爭に負けても禮儀を忘れぬ所が君子である。雖[#二]文王之戰[#一]、亦不[#レ]過[#レ]此也と申して居る。
支那の文學を見渡しても、尚武的のものは甚だ稀で、その反對に兵役の厭ふべきこと、征戰の苦しきことを詠じたものが頗る多い。既に『詩經』を見てもこの憾はあるが、後世の詩文となると、一層この傾向が目に附く。東漢の陳琳の飮馬長
前へ
次へ
全38ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング