何れも危險の割合に、利益が伴はぬことを夙に承知して、成るべく戰爭や鬪爭をせぬ慣習を養成した。實際支那の塞外の北狄などは、たとひ之を撃破した所が、得る所失ふ所に及ばず、功は勞を償はぬ憾がある。多少の歳幣を贈つて、始めから彼等と戰爭せぬが利益である。支那歴代の政策は、利禄を以て北狄を懷柔して、北邊を侵擾せしめぬ樣に力めて居る。〔往古の支那人は、必しも後世の如く、しかく怯懦ではなかつた。故に漢時代には、胡兵五而當[#二]漢兵一[#一]とさへ稱せられた。事實『史記』や『漢書』『後漢書』をみると、荊軻とか聶政とか、傅介子とか段會宗とか、陳湯とか班超とか、快男子が中々多い。所が歴代の誤つた打算主義・妥協主義の積弊が、代一代と支那人の氣骨を銷磨[#「銷磨」は底本では「鎖磨」]させ、遂に今日の如き怯懦至極な支那人を作り上げたものと想ふ。〕
 支那人が文弱である原因は兔に角、支那人は個人としても腕力沙汰は甚だ稀で、團體としても戰爭は好まぬ。支那人の所謂喧嘩は喧嘩口論である。この意味での喧嘩ならば、支那人は世界有數の喧嘩好きかも知れぬ。支那の學堂や官衙など、人の群集する場所には、必ず禁止喧嘩と掲示してある
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