禪讓のことを記して、
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稽[#二]唐禪[#一レ]虞。紹[#二]天明命[#一]。釐[#二]嬪二女[#一]。欽授[#二]天位[#一]。
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など文字を列べてあるが、實に滑稽至極と申さねばならぬ。
しかしこの方法が案外好評であつたので、その以後支那の革命は、大抵この似而非なる禪讓の形式を採つて居る。その裏面を窺ふと、或は願後身世世、勿[#三]復生[#二]天王家[#一](劉宋の順帝)といひ、或は願自[#レ]今以往、不[#三]復生[#二]帝王家[#一](隋の恭帝)といひ、似而非なる禪讓の犧牲となつた君主の境遇、眞に憐むべきものがあつても、兔に角形式の上では、堯舜の先例その儘になつて居れば、それで支那人は承知するのである。
支那人は何事をするにも、必ず古人を引き出して來る。西晉の武帝はその太子の惠帝(司馬衷)の暗愚で不評判なるを憂ひ、その才能の程度を實驗する爲に、特に密封にて或る問題を與へて、太子にその答案を提出せしむることにした。その答案の結果如何によつて、太子の廢立を斷行する決心であつた。所が太子の妃の賈氏は中々油斷ならぬ人物で、武帝の眞意を測り
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