文[#レ]奸頃には、聖人君子として崇拜されたのである。唐の白樂天の、
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周公恐懼流言日。王莽謙恭下[#レ]士時。若使[#二]當年身便死[#一]。至[#レ]今眞僞有[#レ]誰知。
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といふ詩は、この間の事實を詠じたものである。〕
三國の魏の文帝曹丕(曹操の子)も亦、堯舜の禪讓といふ先例を借り來つて、首尾よく東漢の天下を簒奪した。支那では古來革命に二の形式がある。一は禪讓といひ、徳ある者を求めて、之に天下を禪るので、堯と舜、舜と禹などがそれである。一は放伐といひ、兵力に訴へて雌雄を爭ひ、雄者が天下を取るのである。殷の湯王が夏の桀王を放ち、周の武王が殷の紂王を伐つたのがそれである。二の中で放伐の方が評判が惡い。戰國時代から兩漢時代にかけて、學者は多く放伐を抑へて禪讓を揚げる。そこで曹丕は東漢最後の獻帝を脅迫して、天下を己に禪らしめ、然も外面だけは再三之を固辭する。堯が舜に天下を禪つた時、その二女娥皇・女英の姉妹を舜に配したといふので、曹丕も獻帝の二女を後宮に迎へるなど、形式的のことまで眞似をやつて居る。今も河南の許州附近に受禪碑があつて、當時の
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