準1−92−67]支單于を襲ひ殺して、稀有の大功を建てたことがある。所が當時の丞相の匡衡といふ儒者は、制を矯めて――當時陳湯は遠く西域に在り、至急を要することとて、天子の許可を待つに由なかつたのであるが――兵を動かした者に賞を加へては、從來これに倣つて、事を塞外に起すもの續出すべしとて、痛くその功を抑へた。豪傑の陳湯は他の事情もあつたが、かかる大功を建てたに拘らず、その晩年は實に憐むべき悲境に陷つた。
また唐の玄宗時代に、大武軍の牙將に※[#「赤+おおざと」、第3水準1−92−70]靈筌といふ者があつて、當時塞北に跋扈して、屡※[#二の字点、1−2−22]唐を侵略した突厥の可汗の默啜の首を獲て、之を朝廷に獻じたことがある。この時にも宰相の宋※[#「王へん+景」、第3水準1−88−27]といふ者が、※[#「赤+おおざと」、第3水準1−92−70]靈筌に厚賞を加へると、年少氣英の天子に邊功を獎める結果を生ずべしとて、彼の功を抑へたから、※[#「赤+おおざと」、第3水準1−92−70]靈筌は不平と失望との爲に、遂に慟哭吐血して死んだと傳へられて居る。
支那人が文弱で怯懦であることは、古き
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