くなる。唐軍は散々の體で本國に引き揚げた。
 唐の太宗といへば、三代以後の明君である。その赫々たる武功に汚點を印したのは、安市城の失敗である。この失敗の責任は、さきに太宗に反對して、安市城攻めを主張した李勣に歸せなければならぬ。李勣にして言責職責の何物たるかを知つたなら、是非安市城を攻め落さなければならぬ筈である。到底攻め落すことが出來ずば、自から責を引いて處決する位の覺悟があつて欲しい。然るに李勣は吾不[#レ]關焉を極めこんで、長い一生を送つたのは、支那第一流の名將と仰がれる李勣の所作としては、甚だ感心出來ぬと思ふ。
 我が豐臣秀吉が天正十五年(西暦一五八七)に、九州征伐に着手した時、略これと同樣の事件が起つた。豐前の秋月種實の兵は、島津の後援を得て、巖石城に立籠つた。巖石城は音に聞えた險阻である。城將熊谷越中も一廉の武將であるから、秀吉は蒲生氏郷を巖石城の押へとして、本軍を前進せしめようと計畫した。氏郷は之を無念に思ひ、是非巖石城の攻撃をと願ひ出たが、秀吉は容易に許さぬ。強願再三に及んで、秀吉も終に氏郷の請を許した。そこで氏郷はこの城を得攻落さねば、切腹と覺悟を定め、必死の勢で攻め
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