君主の勝手に開始せしものなるに、その犧牲となつて何等怨のない兩軍が、命掛けの戰爭するなどは、馬鹿の骨頂なればとて、兵を交へずに久しく對峙したと書いてある。これが支那軍人の多數の心掛けである。「弄[#レ]兵玩[#レ]寇。以爲[#二]富貴之資[#一]」とて、敵とは申譯ばかりに兵を交へて戰爭を長引かせ、成るべく多額の軍用金を政府より引出すことに苦心を費す。唐時代にも幾度か藩鎭征伐を行うたが、徒らに國帑を空しくするのみで、餘り成功がなかつた。その最大原因は、官軍の大將が賊軍と妥協して、兵を弄し寇を弄ぶからである。遠い戰國や李唐時代を引く迄もなく、最近の中華民國の有樣を見ても、成程と點頭《うなづ》かるる所が多い。
大正六年十一月に、段祺瑞内閣から南方征伐の大權を委任されて湖南へ出陣して居つた、總司令官の王汝賢や副司令官の范國璋らが連署して、弭兵和平の通電を發して、段内閣の瓦解の原因を作つた。この形勢に憤慨して、北方の督軍連が、その十二月に所謂天津會議を開き、段祺瑞の擁護と南方討伐を決議したのはよいが、さて愈※[#二の字点、1−2−22]出陣となると、さきに天津會議の席上で、最も強硬説を主唱したといふ第一路總司令官の曹※[#「金+昆」、第4水準2−91−7]や、第二路總司令官の張懷芝は、何時の間にやら軟化して仕舞ふ。大本營では強硬説が主張せられ、戰線では妥協説が歡迎されるのが、支那古今の常態である。之には種々内面の理由もあるが、支那人は一身の利害の爲には、苟合妥協を濫用して恥づる所を知らぬことも、確にその一大原因と認めねばならぬ。彼等は軍用金を手に入れる目的で、心にもない強硬説を主張するが、目的さへ達すれば、その本性を發揮して、妥協を主張するのである。
四 支那人の妥協性(四)
國内に於て妥協を濫用する支那人は、異族に向つても亦妥協を濫用する。北支那なる燕・趙地方は、もと悲歌慷慨の士多しと稱せられたが、それも過去のこと、唐・宋以後となつては、彼等もよく外來の異族と妥協して行く。金の世宗は曾て燕人を評して、「遼兵至則從[#レ]遼。宋兵至則從[#レ]宋。本朝(金人)至則從[#二]本朝[#一]」と罵倒したが、かかる態度は燕人に限らず、支那人全體に普通かと思ふ。女眞人や蒙古人や滿洲人との妥協は兔に角、一八六〇年に英・佛軍の北京進撃の時にも、明治三十三年に聯合軍
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