れて居る。それで支那には古く欲[#レ]得[#レ]官殺[#レ]人放[#レ]火、受[#二]招安[#一]といふ諺があつた。放火殺人を行ひ、成るべく暴れ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りて政府を手古摺らせ、然る後に歸順に出掛けるのが、官吏となる出世法の一番捷徑といふ意味である。隨分亂暴な諺だが、實際支那にはかかる時代が尠くないから驚く。
この賊徒の招安に關して、歴史上種々の笑話が傳へられて居る。南宋時代に政府が多數の賊徒を招安して、之に宣贊舍人(從七品の武官)の官を與へた所が、正當の宣贊舍人は賊徒出身者と同一視されるのを厭ひて、之に抗議を申出た。政府は已むを得ず、正途出身の宣贊舍人には兼官を與へ、兼官を有する宣贊舍人は正途の出身、兼官なき宣贊舍人は招安の出身と、一目瞭然と區別の立つ樣にした。正當出身の宣贊舍人は之で得心したが、今度は招安出身の新宣贊舍人の苦情で、政府はその處置に困惑したといふ。
又ほぼ同時代に、鄭廣といふ海賊の頭目が歸順して、政府から然るべき官吏に取り立てられたが、その同僚は皆彼の前身を輕蔑して、役所で會食の折にも、彼一人だけは排斥するといふ風であつたが、この排斥された鄭廣は、聖人面する同僚が、支那官吏の常習として、何れも中飽――袖の下――を貪つて居ることを察知して、一日左の如き皮肉な詩一首を作つて、彼等の※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]覽に供した。
鄭廣有[#レ]詩上[#二]衆官[#一]。文武看來總一般。衆官做[#レ]官却做[#レ]賊。鄭廣做[#レ]賊却做[#レ]官
詩の意味は、諸君は官吏となり、その位置を利用して泥棒を行ひ、自分は泥棒の位置を利用し、招安に應じて官吏となる。唯手段に前後の差あるのみで、畢竟同志同行と稱すべきものなるに、何が故に自分一人を排斥するかといふに在つたから、同僚一同苦笑して、爾後その態度を改めたといふ。
三 支那人の妥協性(三)
勿論支那の政府も時に強硬手段をとり、或は大將を派遣し、或は地方官に命じて賊徒を討伐せしむることもある。かかる場合でも、その官吏や大將は、如才なく賊徒と妥協を行ふ。即ち賊徒に金穀を與へてその歡心を買ひ、此の如くして彼等を暫く管外に退散せしめ、若くは正面衝突を避けしむるのである。『韓非子』に昔衞と荊(楚)と交戰した時、その二國の大將が妥協を行ひ、戰爭は二國の
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