羊と稱した。人肉を羊肉と同一視した譯である。南宋の莊綽の『※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]肋編』に、忠實に當時の慘状を述記して居る。之にも勝る一層の慘事が、元末擾亂の際に實現した。その光景は、當時の陶宗儀の『輟耕録』に委細に描出されて居る。
 實例の紹介は右に止めて、支那人の人肉を食用する動機を考察すると、大約之れを左の五種に區別することが出來ると思ふ。
(第一) 饑餓より來る要求で、勿論之が一番普通である。支那では凶年の場合に、所謂人相食と申して、尤も露骨に弱肉強食の有樣を現出する。かかる場合にも、民間ではその子を易へて、甲は乙の子を、乙は甲の子を食して、一時の露命を繋ぎ、又は公然人肉を市場で販賣するといふ事實が頗る多い。支那では凶年に人肉を食料に充てるのが、殆ど慣例となつて居る。
(第二) 凶年でなくとも、戰爭の際重圍の裡に陷つて、糧食盡くる時は、支那人は人肉を以て糧食に代用することが、殆ど一種の慣例と申して差支ない。唐の張巡・許遠らが、賊軍の爲に※[#「目+隹」、第3水準1−88−87]陽に圍まれて糧道絶ゆるや、張巡は眞先にその愛妾を殺し、許遠はその從僕を殺して士卒の食
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