に充て、續きて城中の婦人を、最後に戰鬪に堪へ得ざる老弱の男子を糧食に供したことは、有名なる話であるが、かかる事實は支那では寧ろ普通の出來事かと思ふ。蒙古の太宗が金の都の※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]京を圍んだ時、城中食盡きて人々相呑噬して、一日の生を偸んだ慘憺たる光景は、當時の籠城者の一人なる劉祁の記録によつて、七百年後の今日でも、その髣髴を想見することが出來る。明末の流賊李自成の爲に、長い攻圍を受けて、糧食に盡きた開封の城民は、父は子を食ひ、夫は妻を食ひ、兄は弟を食ふといふ、戰慄すべき餓鬼道に陷つた有樣は、當時の籠城者の一人なる李光※[#「殿/土」、読みは「でん」、456−12]の日誌に備載されて居る。
(第三) 嗜好の爲に人肉を食用することで、この例は餘り多くない。五代時代の高※[#「さんずい+豐」、第4水準2−79−49]や萇從簡は、相當高位大官の身分なるに拘らず、人肉を好み、或は行人を掠め、或は小兒を捕へて食料に供したといふ。唐代の薛震や獨孤莊なども、人肉嗜好者として後世に知られて居る。その他にも若干の人肉嗜好者を列擧することが出來る。
(第四) 憎惡の極その
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