や張飛は早く非命に斃れ、趙雲一人は生存したが、之も久しからずして世を辭し、その以後には名ある大將は殆ど存在せぬ。文官の方は一層淋しい。魏は流石に中原を領して、人物雲の如くにある。呉も早く東南に據つて、相當人物も集つた。獨り劉備は久しく流浪生活を營んだ爲、人物を招致する機會を失つた。最後に蜀に根據地が出來たが、邊鄙で人物に乏しい。孔明一人が特に傑出して居つたのと、その他に人物がなかつたのと、この二理由が、勢ひ孔明をして多忙過勞に陷らしめたのである。
五 諸葛亮(中)
蜀の内治が略整理がつくと、孔明は西暦二百二十七年に、始めて魏を伐つべく出征する。この時劉禪に上つたのが、かの前出師表で、所謂鬼神をも泣かしむると評さるる程の名文である。字句に何等の技巧はないが、全篇赤心の結晶である。爾來孔明は七年の間、その死に至る間際まで、餘事を擲つて再三再四出征を續けたが、蜀から魏へ出征するには、軍糧運搬に想像以上の困難があるのと、又孔明の計畫を實行するだけの大將が不足した等の原因で、十分の成功を見得ぬ間に、彼は出征の軍中で病死した。そは西暦二百三十四年で、彼の五十四歳の時であつた
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