分して、魏・蜀・呉三國鼎立の姿となつた。
 劉備は蜀を占領して國を建てたが、その整理がつかぬ中に、西暦二百二十三年に世を辭し、十七歳の劉禪がその後を承けた。劉禪は年も弱《わか》し、質も凡庸であつたから、劉備の遺命を受け、後事を託された、孔明の苦勞は並々でない。丁度この時四十三歳になつた孔明は、丞相として一國の政治を統べ、又益州牧を兼ねて親しく地方行政に當り、又その以前から司隷校尉をも兼ねた。一口に申せば、彼一人で總理大臣、東京府知事、警視總監を兼務するので、その多忙なること設想以上である。殊に責任感の強い彼は、決して職務を忽にせぬ。罰二十以上皆親覽といふ有樣で、多忙以上の多忙を極めた。やがて蜀が南征北伐と軍を出す時には、孔明が必ず軍を統率したから、陸軍大臣に司令長官の職を兼ねた譯である。從つて孔明は文字通りに寢食の暇がなかつた。之に就いて當時心ある者は孔明の過勞を諫めた事もある。されど孔明がかく多忙を極めねばならぬ已むを得ざる事情があつた。即ち蜀には文武の人材が痛く缺乏して居つた。孔明一人は太陽の如く輝いて居るが、その以外の人物は誠に寥々である。軍事には關羽・張飛・趙雲があつたが、關羽
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