於ける割勢者の死亡率は不明であるが、マホメット教國のそれほど高率でないらしい。それでも明時代に苗童を割勢した場合には、五分の一以上の死亡者を出したといふ。かかる危險を冒してまで、割勢して宦官を志願するのである。〕
 支那の宮廷には、多い時は一萬二三千人、少き時も三千人位の宦官が居る。その宦官の或る者は、罪科によつて免職されることもある。或る者は老衰して退隱するものもある。或る者は病氣に罹つて死亡するものもある。故に絶えず補缺を必要とする。明の天啓元年(西暦一六二一)に、宦官の補缺三千人を募集した時に、應募者の實數二萬餘人に達した。餘り志願者が多いから、政府は俄に豫定額に一千五百人を増して、すべて四千五百人の宦官を、一時に採用したといふ。眞に驚くべき事實でないか。併しこの事實は『皇明實録』にも記載されて居り、又當時支那に在留した、耶蘇宣教師の記録にも見えて居るから、殆ど疑ひを容れる餘地がない。
 支那の政治は孝道を第一に置く。從つて父母の遺體を傷け、子孫の蕃殖を絶つ如き行爲は、尤も嚴重に取締らねばならぬ。故に歴代の政府は、表面上自宮者を禁止して居る。明時代にも政府は可なり嚴重な制裁を設け
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