暦七九〇)の古文書である(32[#「32」は縦中横])。此等の古文書は何れも薩末※[#「革+建」、79−7]で製紙工場が創設された時代から、Rainer 太公所藏のマホメット教國産の尤も古き紙の時代にかけて、約四十年間に當つて居る。此等の古文書はその紙質調査の爲め、大抵 Wiesner 教授の手許に送られ、例の顯微鏡調査の結果、此等の古文書の紙には、幾分の敝布も混じて居るが、その大部分は桑、桂及びラミイ即ち China−grass 等の皮を原料として居ることが判明した。唐の中世に西域地方で使用されて居つた紙の主要成分が、桑其他の草木の皮であるとすると、薩末※[#「革+建」、79−11]で支那人の手によつて始めて製造されたマホメット教國の紙も亦同樣であつたであらうと想像すべき餘地が甚だ多い。マホメット教國の史家が薩末※[#「革+建」、79−13]の産紙は最初草木を原料としたと傳へて居るのは、此點から推しても、大體上信憑すべきやうに思はれる。
 以上敍述した要點を約すると、西暦七百五十一年薩末※[#「革+建」、79−14]で製紙工場の創設された當時は、製紙の原料として草木を使用したといふ傳説は疑ふべき餘地がないが、同時に西暦七百九十一二年の交の薩末※[#「革+建」、79−15]産の紙を調査すると、純然たる襤褸《ぼろ》紙で樹皮などの生纖維は毫も混和されて居らぬ事實も亦信用せねばならぬといふに歸着する。從つて製紙の原料にかく顯著なる相違のある原因は、西暦七百五十一年から七百九十一二年にかけて約四十年間に、マホメット教國内に起つたものと認定せなければならぬ。
 Wiesner 教授はマホメット教國の産紙と天山南路で發掘された支那紙とに對して綿密なる化學試驗、顯微鏡調査を行ひ、この二國の紙を比較して、大要次の如き斷案を下して居る。
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唐時代の支那紙は幾分の敝布を混じて居るけれども、その主要なる原料は桑其他の雙子葉植物の皮である。支那人は製紙法をマホメット教國に傳へたが、薩末※[#「革+建」、80−5]《サマルカンド》附近には第一の原料ともいふべき桑樹が缺乏して居るから、必要上次第に敝布の分量を増加し、それでも製紙の目的を達し得ることを經驗すると、最後には敝布――マホメット教國に豐富なるリンネン襤褸――のみで紙を製造することとなつた。紙は支那から傳つたが、その原料を變へて今日一般に使用さるる純粹の襤褸紙(Pure Rag−Paper)を産出するに至つたのは、マホメット教徒の功といはねばならぬ。
支那紙の原料の樹皮は、最初は石臼にて人力で擣き碎いたものであるが、これでは纖維組織を損すること多く、從つて出來上つた紙質も粗鬆《そしよう》で、字を書くと※[#「さんずい+念」、80−11]《ち》る恐がある。やや後世――西暦七八世紀頃――となると、化學作用で樹皮の纖維組織を餘り損ぜぬやうになつた。從つて紙質も一段改良された。併し敝布は依然石臼で擣き碎いた儘である。所がマホメット教國の産紙を調査するとその原料たる敝布から化學作用で、手際よく纖維を抽出した痕が歴々として認められる。マホメット教徒は原料取扱について、支那人よりも一層の改良進歩を遂げたといはねばならぬ。
原料の變更原料取扱の改良この二點を除くと、マホメット教徒の製紙の方法は――原料に糊を混加し、又は紙面に澱粉末を塗布して紙質を良好にする方法まで――大體支那人のそれと同一である。
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 以上の斷案が今日の學界に證典として公認されて居る。併し多少の疑惑を挾むべき餘地がないでもない。第一 Wiesner 教授の調査した支那紙の數は決して多くない。年代の確實なるものは僅か六七種に過ぎぬ筈である。然も此等は多く唐代のもので、何れも和※[#「門<眞」、第3水準1−93−54]《コータン》の東北約百マイル許の 〔Wanda^n−Uiliq〕 地方から發掘されたものである。一地方から發掘された少數の支那紙の調査のみでは、決して支那紙全般の原料や製法を確實に推斷する譯にはいかぬ。
 第二に東漢時代から已に麻紙、穀紙、網紙の區別があつた。『東觀漢記』の一本に、
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倫(蔡倫)典[#二]尚方[#一]作[#レ]紙。用[#二]故麻[#一]名[#二]麻紙[#一]。木皮名[#二]穀紙[#一]。魚網名[#二]網紙[#一]。
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と記してある。故麻といふと麻|襤褸《ぼろ》のことであらう。すると網紙は勿論、麻紙もたとひ純粹の襤褸紙でなくても、その主要成分は熟纖維(Textile Fibres)であつたと想像される。少くとも天山南路で發掘された支那紙――Wiesner 教授によれば樹皮を主要原料とせる――と同一の成分ではなかつたであらうと思はれる。併しこの問題を解決するには、成るべく多くの古代の支那紙を蒐集して、之を Wiesner 教授と同樣の方法で調査する外はない。事實は最後の解決である。

         六

 Stein 氏が天山南路の探檢に着手して以來、ヨーロッパ諸國の探檢者は陸續この方面に出掛けた。ドイツからは最初に 〔Gru:nwedel〕 氏(西暦一九〇二―一九〇三)次に Le Coq 氏(西暦一九〇四―一九〇六)第三囘には 〔Gru:nwedel〕 及び Le Coq 二氏(西暦一九〇六―一九〇七)が出掛けて、幾多の古文書を發掘した。英國からは Stein 氏が再び天山南路に出掛け(西暦一九〇六―一九〇八)敦煌で幾多の遺籍、文書を發見した。フランスの Pelliot 氏も亦この方面に出掛け(西暦一九〇六―一九〇九)敦煌で大發見をやつたことは、我が國人の耳に猶ほ新なる所である。此等の探檢によつて得た成績は、多くは未だ發表にならぬけれども、其うちに唐代若くばその以前の文書――吾が輩が前項に述べた支那紙の原料及び製法問題を解決するに屈竟なる材料が少くないことだけは確實である。
 わが國の西本願寺の大谷伯爵も亦去る明治三十五年以來この方面に探檢隊を派遣して居る。第一囘第二囘の探檢は已に終を告げ、今は第三囘探檢中である。第一囘第二囘の探檢の獲物のうちに、唐の玄宗の天寶五載(西暦七四六)の牒状がある。之は怛邏斯《タラス》城の戰役前正に五年のもので、マホメット教國の産紙と支那紙との原料相違如何を調査するに當つて、有力の材料たるべきものである。其他年號によつて若くは書體より推して、南北朝若くばその以前と認定すべき古寫經、古文書頗る多くして一々列擧するに暇ないが、中に就いて尤も注意に價するもの一二を擧げると次の如きものがある
 第一が西晉の元康六年(西暦二九六)の古寫經である。松本文三郎博士が已に紹介された通り(33[#「33」は縦中横])この古寫經は西晉の竺法護譯の『諸佛要集經』である。寫經や書道の方面から觀ても隨分珍とすべきではあるが、支那紙研究の材料として一層貴重すべきである。元康六年は蔡倫が紙を發明した元興元年を距ること僅に百九十一年、即ちこの古寫經の用紙は支那で紙が發明されてから、後くも百九十二年目のものである。恐くは今日に傳はれる支那紙の最古のものであらう、古紙研究の屈竟の材料たるべきは申す迄もない。之に續くが李栢文書である。この文書は年號を缺いて居るけれども羽田學士の研究によると、東晉の咸和三年乃至五年(西暦三二八―三三〇)の間のものと認定される(34[#「34」は縦中横])。果して然りとすれば、之も亦古代の支那紙を研究するに見逃すべからざる材料である。
 昨年清國へ出張されたわが京都文科大學教授諸君の調査によると、學部若くば個人の所藏に歸した敦煌の遺書中に、南北朝隋唐時代の古寫經が頗る多い。年號の備はつて居るものも少くない。何れも支那紙研究の材料に供すべきであるが、殊に唐の至徳二載(西暦七五七)の『十戒經』は怛邏斯《タラス》城の戰役後六年目のもので、西本願寺所藏の天寶五載の牒状と共に支那紙西傳時代に關係ある重要の材料である。
 要するに最近數年間に古代の支那紙を研究すべき新材料が多數に蒐集された。此等の材料殊に西本願寺所藏の古文書――が Wiesner 教授と同樣の方法によつて、科學的に研究された曉に、始めて世界の製紙史上に於ける支那紙の位置が確定される譯である。吾が輩はかかる時期の一日も早く到來せんことを希望するのである。

參照
(1)清の李惇の『群經識小』(『皇清經解』卷七百二十二)。
(2)晉の杜預の『春秋左氏傳』序の註。
(3)清の劉寶楠の『論語正義』卷一所引。
(4)『後漢書』卷一百八、宦者列傳。
(5)『東觀漢記』卷二十(『武英殿聚珍版全書』所收)。
(6)『欽定四庫全書總目提要』卷五十。
(7)許愼の『説文解字』敍及びその子、許沖の「進『説文解字』上書」。
(8)『段注説文解字』第十三篇上。
(9)『通雅』卷之三十二。
(10[#「10」は縦中横])"Die Erfindung des Papiers in China" S. 7 (T'oung Pao, 1890).
(11[#「11」は縦中横])"Who was the Inventor of Rag−Paper?" p. 680 (J.R.A.S. 1903).
(12[#「12」は縦中横])"Oriental Elements of Culture in the Occident" p. 522.
(13[#「13」は縦中横])『資治通鑑』卷二百十六。
(14[#「14」は縦中横])Le Strange; "The Lands of the Eastern Caliphate" p. 486.
(15[#「15」は縦中横])『通典』卷一百八十五。
(16[#「16」は縦中横])Hirth; "Nachworte zur Geschrift des Tonjukuk" S. 3.
(17[#「17」は縦中横])┌Hoernle; "Who was the Inventor of Rag−Paper?" p. 668.
   └Chavannes; "Documents sur les Tou−Kiue Occidentaux" p. 297.
(18[#「18」は縦中横])┌〔Wu:stenfeld; "Vergleichungs−Tabellen der m. und ch. Zeitrechung" S. 6.〕
   └『三正綜覽』九十七丁(但しヴェステンフェルド氏と一日の相違あり。しばらくヴ氏に從ふ。)
(19[#「19」は縦中横])┌『三正綜覽』九十七丁。
   └Brumsen; "Japanese Chronological Tables" p. 57.
(20[#「20」は縦中横])Hammer−Purgstall; "〔Auszu:ge aus Saalebl's Buche der Stu:tzen des sich Beziehenden und dessen worauf es sich bezieht〕" S. 529 (D.M.G. 1854).
(21[#「21」は縦中横])Hoernle; "Who was the Inventor of Rag−paper?" p. 664.
(22[#「22」は縦中横])Hirth; "Die Erfindung des Papiers in China" S. 13.
(23[#「23」は縦中横])Chavannes; "Documents sur les Tou−Kiue Occidentaux" pp. 297, 298.
(24[#「24」は縦中横])Hoernle; "Who was the Inventor of Rag−paper?" p. 670.
(25[#「25」は縦中横])William Ouseley; "Ibn Haukal" p. 233.
(26[#「26」は縦中横])坪井博士『史學研究法』百十四―百二十一頁。
(27[#「27」は縦中横])Jacob; "Orient
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