レ]路。嗣業前驅奮[#二]大梃[#一]撃[#レ]之。人馬倶斃。仙芝乃得[#レ]過(13[#「13」は縦中横])。
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この本文に恒羅斯城とあるのは、勿論怛羅斯城の誤である。怛羅斯城は怛羅斯川の畔で、大抵今の Aulieh−Ata に當る(14[#「14」は縦中横])。唐の杜佑の傳ふる所によると、この時高仙芝の軍はすべて七萬人を失つた(15[#「15」は縦中横])。尤もその多數は捕虜となつたものと見える。『經行記』の作者の杜環の如きも、この時捕虜となつた一人で、彼は約十年間大食國に拘留せられ、代宗の寶應元年(西暦七六二)に南海を經て、廣東に歸着いたし、その見聞に本づきて『經行記』を作つた(16[#「16」は縦中横])。『經行記』その物は今日已に佚亡したけれども、その幾分は杜佑の『通典』以下に引用されて今日に傳はり、唐代の西域研究に必要なる材料を供給して居る。
怛羅斯城の戰のことは勿論マホメット教國の記録にも載せられて、よく支那の史料と一致して居る(17[#「17」は縦中横])。マホメット教國の材料では、この戰を囘暦《ヘジラ》百三十三年の十二月(〔Dsu^l−Hiddscha〕 月)に繋けてある。西暦に換算すると七百五十一年の六月三十日から七月二十九日に當る(18[#「18」は縦中横])。支那の史料では『唐書』の玄宗本紀の天寶十載の條に、
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七月。高仙芝及[#二]大食[#一]。戰[#二]于恒《タ》(怛の誤)邏斯《ラス》城[#一]敗績。
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とあるのみで、『舊唐書』始め何れも月を記してない。天寶十載七月は西暦で七百五十一年の七月二十七日から八月二十五日に當る(19[#「19」は縦中横])。即ち東西の史料は年月に於て一致せしめ得べき望みがある。東西の史料が正しく會戰の月を傳へたものとすれば怛羅斯《タラス》城の戰は囘暦百三十三年十二月の末、天寶十載七月の初の出來事と認定せなければならぬ。
マホメット教國の慣習で、戰場の捕虜となつた異教徒は皆奴隷にする。この時奴隷となつた支那兵士の中に、もと紙灑職工のものがあつたから、〔Ziya^d〕 は之を使役して Samarkand 市(『唐書』の薩末※[#「革+建」、75−4]《サマルカンド》又は颯秣建《サマルカンド》)に製紙所を創設した。之がマホメット教國に於ける製紙の起源である。
四
マホメット教國の勃興以前は勿論、その初起時代でも、パミール以西の諸國では、書寫の材料として、普通にカヤツリ紙即ち Papyrus か殊に革紙即ち Parchment を使用した。『史記』の大宛傳及び『漢書』西域傳に安息國(Parthia)のことを記して、「畫[#レ]革旁行爲[#二]書記[#一]」といひ、『梁書』諸夷傳に滑國即ち厭帶夷栗※[#「こざとへん+施のつくり」、第4水準2−91−67](Ephthalites)のことを記して、「羊皮爲[#レ]紙」とあるのは當時革紙の使用された證據である。便利で徳用な支那紙が使用され始めてから、カヤツリ紙も革紙も次第にその影を潛むるに至つた。
マホメット教國の製紙法は支那のそれを傳へたものであるといふことは、可なり以前から知られて居つたが、その製紙法傳來の年代はやや不明瞭であつた。Casiri 氏は囘暦の三十年(西暦六五〇―六五一)を、Hammer−Purgstall 氏は囘暦の五十六年(西暦六七五―六七六)を製紙法傳來の年代に當てて居る(20[#「20」は縦中横])。其他西暦七百四年傳來説も普通であつた(21[#「21」は縦中横])。オーストリーの Karabacek 教授ははじめてマホメット教國の材料により Hirth 氏は支那の史料によつて之を助け、〔Ziya^d〕 が支那の捕虜を使役して、薩末※[#「革+建」、75−16]《サマルカンド》に製紙工場を起したのは、西暦の七百五十一年に當ることを確實にした(22[#「22」は縦中横])。
Karabacek 教授の著書には 〔Taa^libi^〕 や 〔Qazwi^ni^〕 などいふマホメット教徒の記録を引用して、薩末※[#「革+建」、76−1]《サマルカンド》に製紙工場の創設された當時の有樣を述べて居る。今その著書を參考することが出來ぬけれども、その大要は他に引用されて居るから、之を抄譯すると次の如くである。
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薩末※[#「革+建」、76−4]市に就いては、特に紙を記載せねばならぬ。薩末※[#「革+建」、76−4]の紙はその美麗と便利と廉價の諸點で、遙に從來のカヤツリ紙及び革紙に優つたから、容易に後者を市場より驅逐した。この紙はただ薩末※[#「革+建」、76−5]及び支那に於てのみ産出される。『國及び路』の著者によると、紙は戰爭の捕虜によつて、支那から薩末※[#「革+建」、76−6]へ傳へられたもので、かく支那人を捕虜となし、その捕虜の中より經驗ある者を求めて、製紙業に從事せしめたのは 〔Sa^lih〕 の子なる 〔Ziya^d〕 其人である。かくて紙の製造は次第に發達し、遂に薩末※[#「革+建」、76−8]の重要なる産物となつた。又之によつて世界の國々の人類に利益を與へた(23[#「23」は縦中横])。
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一體支那紙は後くも囘暦三十年(西暦六五〇―六五一)の頃からマホメット教國へ輸入されて居る(24[#「24」は縦中横])。さきに製紙法傳來の年代に關する一説として紹介した Casiri 氏の説は實は、支那紙輸入の年代と見るべきものであらう。薩末※[#「革+建」、76−11]の製紙業が發達すると共に、マホメット教國への支那紙の輸入は次第に杜絶せられ、薩末※[#「革+建」、76−12]製の紙を以てその需要を充たすこととなり、薩末※[#「革+建」、76−13]は紙の産地として全マホメット教國に聞えた。西暦十世紀の初に出た Ibn Haukal なども薩末※[#「革+建」、76−14]の紙は世界無比と賞讚して居る(25[#「25」は縦中横])。
〔Abba^s〕 家第五のカリフ 〔Ha^run al Rashi^d〕(『唐書』の訶論《ハルン》)の時、呼羅珊《ホラサン》の總督 Al Fazl 始めて薩末※[#「革+建」、76−15]の製紙業をマホメット教國の首都 Baghdad(『唐書』の縛達《バグダツト》)に傳へ、囘暦百七十八年(西暦七九四―七九五)ここに新に製紙工場を建てた。引き續きてペルシア、アラビア、エヂプト、シリア、スペイン等當時マホメット教の勢力範圍であつた國々に、至る處製紙工場が建設せられ、製紙業の隆興と共にカヤツリ紙や革紙の需要は減じ、西暦十世紀の半頃となると、マホメット教國では殆どカヤツリ紙の使用を絶つに至つた。
ヨーロッパ諸國も西暦十二三世紀の頃迄は西方アジアと同樣で、普通にカヤツリ紙や革紙を書寫の材料としたが(26[#「26」は縦中横])、マホメット教國に製紙業が隆興するに從ひ、その製紙はヨーロッパ諸國へ輸入された。フランス、イタリー等の南歐諸國は十二世紀の頃から、ドイツはやや後くれて何れもマホメット教徒から紙の製造を傳へたといふ(27[#「27」は縦中横])。ヨーロッパの中世紀に紙は普通にバンビク紙(Charta Bambycina)、若くはダマスク紙(Charta Damascus)と呼ばれて居る。Bambyce とは Euphrates 河(『唐書』の弗利剌河)の右岸にあつた一都會である。Damascus(元代の的迷失吉《ダマスク》)は申す迄もなく Syria 地方の名都會である。當時マホメット教國からヨーロッパへ輸入した紙は多くこの地方の産であることが察知される。今日ヨーロッパ諸國の紙に關係ある言葉で、アラビア語から派生して居るものもある。一例を擧げると、英語で紙一|束《しめ》を Ream といふが、之はスペイン語の Resma イタリー語の Risma ドイツ語の Ries フランス語の Rame と等しく、何れもその語源をアラビア語の Rezma に求むべきである(28[#「28」は縦中横])。Rezma とは元來小包の意味である。
五
オーストリーのウイーンに Rainer 太公といふ貴族があつて、古紙の蒐集で世間に聞えて居る。今より三十餘年前たしか西暦千八百七十七八年の交に、エジプトの 〔Faiyu^m〕 地方其他二三の地方で、澤山の古文書が發掘された。この古文書の大部は千八百八十四年以來 Rainer 太公の所有に歸した。その古文書の總數は十萬以上に達し、その年代古きは西暦前十四世紀より、新しきは西暦後十四世紀まで、約二千七百年間に跨つて居る。中にはカヤツリ紙もあれば革紙もあるが、併し襤褸紙(Rag−Paper)も中々多い。Rainer 太公はただに古紙を蒐集するのみでは滿足せず、蒐集した古紙を科學的に研究することを企てた。この研究の爲に多くの學者を依頼したが、その中で特別にこの研究に深き關係をもつた學者が二人ある。一人はウイーン大學の Karabacek 教授で主として古文書の調査と紙の歴史の研究を擔當して居る。一人は同じくウイーン大學の Wiesner 教授で專ら顯微鏡調査と化學試驗とで、古代の紙の成分及びその製法などを研究して居る。此等の人々の研究調査の結果は數囘の報告書となつて世に公にされた(29[#「29」は縦中横])。この報告書が公にされてから世界の紙の歴史は始めて明瞭となつたのである。吾が輩は直接その報告書を見たことはないが、その大要は Hoernle 氏の論文(30[#「30」は縦中横])に引用されてあるから、Hoernle 氏のを更に節約して古紙研究の結果概略を下に紹介いたさう。
Rainer 太公の手許に蒐集された古紙のうちには、薩末※[#「革+建」、78−8]《サマルカンド》を始めマホメット教國で製造された紙が澤山ある。年代が古くて確實な方では、西暦八百七十四年、九百年、九百九年の文書がある。年代は明記されてないけれども他の理由によつて、西暦七百九十一年若くば二年と認定すべき文書もある。この最後の文書は薩末※[#「革+建」、78−10]で支那人の捕虜が紙を製造し始めてから、丁度四十年に當つて居る。Wiesner 教授はこのマホメット教國製造の古紙に就いて顯微鏡調査を試みた結果、此等の古紙は何れも純然たるリンネンの敝布《ふるぎれ》を原料として、決して樹皮などの生纖維を混和して居らぬことが判明した。
併し一方ではマホメット教國の史家等は、最初薩末※[#「革+建」、78−14]で紙を製造した時に、草木即ち生の植物纖維を原料としたと傳へて居る。尚ほ又、ペルシア語及びアラビア語で紙を 〔Ka^ghaz〕 又は 〔Ka^ghad〕 といふ。之は印度の Kaghaz といふ言葉と同じく、何れも支那の穀紙(Kuchih 古音 Kok−dz)を訛つたものである(31[#「31」は縦中横])。古傳説が草木を製紙の原料としたと傳へて居り、またマホメット教國へ最初輸入された紙が、穀紙を訛つた 〔Ka^ghaz〕 又は 〔Ka^ghad〕 といふ名稱で知られて居る事實を併せ考へると、當初|薩末※[#「革+建」、79−1]《サマルカンド》で支那人の捕虜によつて製造された紙は、主として樹皮を原料に用ひたであらうといふことは、殆ど疑ふ餘地がないやうに思はれる。
支那の新疆の探檢が行はれると共に、この地方から古文書が發掘された。英國の Stein 氏が天山南路で發掘した古文書は隨分あるが、その中に唐の代宗から徳宗時代にかけての古文書で、年代の明記されて居るものが都合七種ほどある。即ち代宗の大暦三年(西暦七六八)、徳宗の大暦十六年(實は建中二年、西暦七八一)、大暦十七年(實は建中三年、西暦七八二)、建中三年(西暦七八二)、建中七年(實は貞元二年、西暦七八六)、建中八年(實は貞元三年、西暦七八七)、貞元六年(西
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