レ]路。嗣業前驅奮[#二]大梃[#一]撃[#レ]之。人馬倶斃。仙芝乃得[#レ]過(13[#「13」は縦中横])。
[#ここで字下げ終わり]
 この本文に恒羅斯城とあるのは、勿論怛羅斯城の誤である。怛羅斯城は怛羅斯川の畔で、大抵今の Aulieh−Ata に當る(14[#「14」は縦中横])。唐の杜佑の傳ふる所によると、この時高仙芝の軍はすべて七萬人を失つた(15[#「15」は縦中横])。尤もその多數は捕虜となつたものと見える。『經行記』の作者の杜環の如きも、この時捕虜となつた一人で、彼は約十年間大食國に拘留せられ、代宗の寶應元年(西暦七六二)に南海を經て、廣東に歸着いたし、その見聞に本づきて『經行記』を作つた(16[#「16」は縦中横])。『經行記』その物は今日已に佚亡したけれども、その幾分は杜佑の『通典』以下に引用されて今日に傳はり、唐代の西域研究に必要なる材料を供給して居る。
 怛羅斯城の戰のことは勿論マホメット教國の記録にも載せられて、よく支那の史料と一致して居る(17[#「17」は縦中横])。マホメット教國の材料では、この戰を囘暦《ヘジラ》百三十三年の十二月(〔Dsu^l−Hi
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