ddscha〕 月)に繋けてある。西暦に換算すると七百五十一年の六月三十日から七月二十九日に當る(18[#「18」は縦中横])。支那の史料では『唐書』の玄宗本紀の天寶十載の條に、
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七月。高仙芝及[#二]大食[#一]。戰[#二]于恒《タ》(怛の誤)邏斯《ラス》城[#一]敗績。
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とあるのみで、『舊唐書』始め何れも月を記してない。天寶十載七月は西暦で七百五十一年の七月二十七日から八月二十五日に當る(19[#「19」は縦中横])。即ち東西の史料は年月に於て一致せしめ得べき望みがある。東西の史料が正しく會戰の月を傳へたものとすれば怛羅斯《タラス》城の戰は囘暦百三十三年十二月の末、天寶十載七月の初の出來事と認定せなければならぬ。
マホメット教國の慣習で、戰場の捕虜となつた異教徒は皆奴隷にする。この時奴隷となつた支那兵士の中に、もと紙灑職工のものがあつたから、〔Ziya^d〕 は之を使役して Samarkand 市(『唐書』の薩末※[#「革+建」、75−4]《サマルカンド》又は颯秣建《サマルカンド》)に製紙所を創設した。之がマホメット教國に於ける製
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