澤の限りを盡したことは、仔細に當時の記録に傳はつて居る。開港地の地方官は、時に彼等の出資に頼つて城普請を行ひ、又は警備艦を作つたことがある。
 蕃坊即ち外國人の居留地には、勿論イスラム教徒の婦人も滯在して居つたが、當時これを波斯婦とも、菩薩蠻ともいふた。菩薩蠻とはイスラム教徒を指す所の Mussulman《ムツスルマン》 又はそれを訛つた Bussurman《ブツスルマン》 の音譯である。菩薩蠻は唐時代から樂府の題目となつて居るが、この唐時代の菩薩蠻が、果してイスラム教徒の婦人を指したものであるや否やは、大なる疑問であるから、しばらく之を措き、北宋の末頃には、廣州地方でイスラム教徒の婦人をも、菩薩蠻と稱したことだけは事實である。波斯婦とは、當時蕃坊に來寓したイスラム教徒は、多く波斯灣附近の商人であつた故と想像される。五代の時南漢主劉※[#「金+長」、第4水準2−91−3]が波斯女を寵愛して政事を荒廢したのは、恐らく當時廣州に來寓した波斯女を後宮に納れた者であらう。
 蕃坊在留の外國人で、支那婦人を迎へて愛妾としたものも尠くない樣である。『萍洲可談』に據ると、北宋の末に、廣東在留のアラブ
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