として、占城 Chamnpa、馬八兒 〔Ma^bar〕 の二國先づ通商を開き、引續きその他の南海諸國も之にならひ、元一代の外國貿易も亦かなり盛況を極めて居る。この外蒲壽庚は又間接ながら、世祖の日本征伐事件に幾分關係して居る樣である。
蒲壽庚の事蹟は『元史』に至元二十一年(西暦一二八四)を限つて、その以後のことが見えぬ。當時彼は最早かなりの老年で、間もなく世を辭したものと想像される。
さきに紹介して置いた如く、蒲壽庚の兄に蒲壽※[#「宀/成」、第4水準2−8−2]といふ者がある。蒲壽庚も多少文雅の心得をもつては居つたが、兄の蒲壽※[#「宀/成」、第4水準2−8−2]が詩を以て優に一家をなしたには及ばぬ。蒲壽※[#「宀/成」、第4水準2−8−2]は一時梅州(廣東省潮循道梅縣)の知州として令名を馳せたが、宋末に退隱したから、その官途の經歴は弟の蒲壽庚の如く顯著でない。蒲壽庚の人物は寧ろ單純一徹な武人氣質で、餘り策略に長ぜぬが、蒲壽※[#「宀/成」、2−8−2、199−10]は文學の趣味も深く、思慮綿密で宋元鼎革の際に、蒲壽庚のとつた進退は、多くその兄蒲壽※[#「宀/成」、第4水準2−8−
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