して、蒲氏兄弟に投降を勸誘して居る。この勸誘に對して、蒲壽庚は如何なる態度を持したかは、記録に傳はつて居らぬが、彼はこの時から幾分二心を抱いた樣に想はれる。殊に船舶や軍資に不足勝なる宋軍は、泉州に於て蒲壽庚所屬の船舶資産を強請的に徴發した故、蒲壽庚は大いに怒つて、その年の十二月に斷然元に降り、宋に對して敵對行動をとることとなつた。
 蒲壽庚が宋を捨てて元に歸したことは、宋元の運命消長にかなり大なる影響を及ぼした。元來蒙古軍は陸上の戰鬪こそ、當時天下無敵の有樣であれ、海上の活動は全然無能で、この點に就いては宋軍にすら敵しかねたのである。然るに海上通商のことを管理して、海事に關する智識も邃く、且つ自身に多數の海舶を自由にすることの出來る蒲壽庚が元に降つて、その東南征伐に助力したことは、元にとつては莫大の利益で、同時に宋にとつては無上の打撃であつた。景炎帝は間もなく福建方面を去つて、廣東方面に引移らねばならぬこととなつた。
 その翌景炎二年即ち至元十四年(西暦一二七七)の七月に、蒙古軍が福建方面を引き上げたを機會として、宋の張世傑は急に蒲壽庚を泉州に攻めた。泉州は當時南外宗正司の所在地で、宋
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