した斡葛思 〔Wakka^s〕 の建てたものだといふが、勿論信用することが出來ぬ。懷聖寺に在る番塔の構造樣式、さてはその塔上の金※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]など、蒲姓の※[#「穴/卒」、第4水準2−83−16]堵波と、偶然としては餘りの類似である。吾が輩は今の番塔は、宋代の蒲姓の※[#「穴/卒」、第4水準2−83−16]堵波の遺物でないかと想ふ。吾が輩は更に進んで懷聖寺そのものも、或は宋代の蒲姓の建立ではあるまいかと想ふ。
餘談はしばらく措き、兔に角『※[#「木+呈」、131−4]史』に記する所の廣州の蒲姓は、當時廣東第一の富豪で、外國貿易のことを統べて居つた。蒲壽庚の祖先も亦廣州に居つて、諸蕃の互市を統べて兩廣第一の富豪であつた。この事實を對比すると、『※[#「木+呈」、131−6]史』の蒲姓は、蒲壽庚の祖先その人でないかと、想像を容るべき餘地が多い。若しこの想像に從つて、蒲姓を蒲壽庚の祖先と認めるならば、蒲姓は西暦十二世紀末に出で、蒲壽庚は十三世紀の半過ぎの人故、蒲姓は多分蒲壽庚の祖父位に當るべき順序である。
『※[#「木+呈」、131−9]史』の記事に據ると、さし
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