ること疑を容れぬ。岳珂は蒲姓を占城の人と記して居るが、上に述べた如く、當時占城にアラブ商人の假寓した者が尠くない筈故、この蒲姓ももと占城に僑居したアラブ商人と認むべきであらう。
 尚ほ岳珂の傳ふる所に據ると、蒲姓の家宅の後に高大な※[#「穴/卒」、第4水準2−83−16]堵波があつて、その構造樣式は全く普通の佛塔と相違して居る。毎年四五月の交となると、廣州滯在の群※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130−13]がこの塔上に登つて、天に叫呼して南風を祈り、外舶の入境の便利を圖つた。この※[#「穴/卒」、第4水準2−83−16]堵波の絶頂には、もと巨大なる金※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]があつたが、後ち盜難に罹つてその一足を失ひ、爾後一足の儘の金※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]が塔の頂上に在つたといふ。
 吾が輩はこの岳珂の記事から推測して、現今廣州城内にある懷聖寺の番塔又は光塔――廣東の一名物である――は、南宋時代の蒲姓の宅後の※[#「穴/卒」、第4水準2−83−16]堵波と關係あるものと認めたい。懷聖寺は普通の傳説では、支那へ始めてイスラム教を將來
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