蒲壽庚は、もと外國産であるべきは疑を容れぬ。
吾が輩は更に彼の姓を蒲と稱する點から推測して、蒲壽庚は蓋しアラブ人即ちイスラム教徒であらうと斷定する。支那の記録に見えて居る外國人の姓に蒲とあるのは、アラブ人の名乘に普通な、Abu (Abou) の音を表はしたものであらうといふ説は、今より二十餘年前に、ドイツのヒルト氏の唱へ出した所であるが、吾が輩はこの蒲壽庚の蒲も同樣と認めたい。アラブ人ならば、南蕃人と稱しても、西域人と稱しても、事實少しも差支ないのである。
『宋史』の外國傳の大食國の條を見ると、當時大食から宋の朝廷に來貢した使者に、蒲といふ姓を稱する者が甚だ多い。試みにその四五を擧げると、
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太祖開寶九年(西暦九七六) 蒲希密 Abu Hamid ?
太宗太平興國二年(西暦九七七) 蒲思那 〔Abu Si^na ?〕
太宗至道元年(西暦九九五) 蒲押※[#「施」の「方」に変えて「こざと」、第4水準2−91−67]黎 Abu Adil ?
眞宗景徳元年(西暦一〇〇四) 蒲加心 Abu Kashim ?
眞宗天禧三年(西暦一〇一九) 蒲麻勿※[#「施」の「方」に変え
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