た。しかし、なぜかなつかしくって、息子がインキで罫紙《けいし》に書いた手紙を、鼻さきへ持って行って嗅いで見た。清三の臭いがしているように思われた。やがて為吉が帰ると、彼女はまっ先に手紙を見せた。
 為吉は竈の前につくばって焚き火の明りでそれを見たが、老いた眼には分らなかった。彼は土足のまゝ座敷へ這い上ってランプの灯を大きくした。
「何ぞえいことが書いてあるかよ?」おしかは為吉の傍へすりよって訊ねた。
「どう云うて来とるぞいの?」
 しかし為吉は黙って二度繰りかえして読んだ。笑顔が現われて来なかった。
「何ぞいの?」
「会社へ勤めるのに新《さら》の洋服を拵えにゃならん云うて来とるんじゃ。」為吉は不服そうだった。
「今まで服は拵えとったやの。」
「あれゃ学校イ行く服じゃ。」
「ほんなまた銭《ぜに》要《い》らやの。」
「うむ。」
「なんぼおこせ云うて来とるどいの?」
「百五十円ほどいるんじゃ。」
「百五十円!」おしかはびっくりした。「そんな銭がどこに有りゃ! 家にゃもうなんにも有りゃせんのに!」
「洋服がなけりゃ会社イ出られんのじゃろうし……困ったこっちゃ!」為吉はぐったり頭を垂れた。

 
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