軍医の態度には、どっか柔かい、温かげなものがあった。栗本は、出された甲のすべっこい、小さい手を最大限度に力を入れて握ったと見せるために、息の根を止め、大便が出る位いきばった。その実、出来るだけ力を入れんようにして。
「傷はまだ痛いか。」
「はい。」
「よしッ!」
軍医は出て行くように手を動かした。と温かげなものが、急に、頑固な冷たいものに変った。
「自分はまだ癒っちゃ居らんでしょう! この病院でもいい、こゝに置いて下さい! いやだ! 俺ゃまだ銃がかつげないんです!」
栗本の眼はそれを訴えた。そして、軍医の顔を、何か反抗するように見つめた。
「よしッ!」
「始めの約束通り内地へ帰して下さい!」
彼の眼はもう一度それを訴えた。
「よしッ!」
軍医の頑固な冷たいものが、なお倍加して峻厳になってきた。
ベッドに帰ると、ひとしお彼の心は動揺した。まだ絶望したくはなかった。窓外には、やはり粉雪がさら/\と速いテンポで斜にとんでいた。――どっちへころぶことか! 今は、もうすべてが軍医の甲のすべっこい、光っているあの手一つに握られているのだ。
彼は診断室の方の物音と、廊下を通る看護卒の営内靴に耳をすまして時を過ごした。甲のすべっこい、てら/\光っている手は信頼できない性格の表象だ。どっかの本で見た記憶が彼を脅迫した。三時半を過ぎると、看護卒が卑屈な笑い方をして、靴音を忍ばし、裏門の方へ歩いて行った。五十銭持って、マルーシャのところへ遊びに行ったのだ。不安は病室の隅々まで浸潤してきた。栗本は夕飯がのどを通らなかった。平気でねているのは、片脚を切断した福島と、どうせ癒る見込みがない腹膜炎の患者だけであった。
電燈がついてから、看護長が脇の下に帳簿をはさんで、にこ/\しながら這入って来た。その笑い方は、ぴりッとこっちの直観に触れるものがあった。看護長は、帳簿を拡げ、一人一人名前を区切って呼びだした。空虚な返事がつづいた。
「ハイ。」
「は。」
「は。」
呼ばれた顔は一ツ一ツ急にさッと蒼白になった。そして顔の筋肉が痙攣を起した。
「ハイ。」
栗本はドキリとした。と、彼も頬がピク/\慄え引きつりだした。
「今、ここに呼んだ者は、あした朝食後退院。いゝか!」
同じように、にこ/\しながら看護長は扉を押して次の病室へ出て行った。
結局こうなるのにきまっていたのだ。それを、藁
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