ないうちに、反対に戦場へ追いやるのは随分ツライ話だ。が、彼は、そのツライ話を実行しなければならないと考えた。
 負傷者は、今、内地へ帰れなかったら、この次、いつ内地へ帰れるか、さきは暗闇だった。――鉄橋からの墜落、雪の中の歩哨、爆弾戦、忌々しいメリケン兵などが彼等の前に立ちふさがっているばかりだった。そこで彼等は、再び負傷か、でなければ、黒龍江を渡って橇で林へ運ばれて行く屍の一ツにならなければならないのだ。それは、堪え難かった。彼等は、知らず識らず傷をひどく見せ、再び役には立たん人間のように軍医に見せようと努めた。
 軍医は、診断にやって来る兵士が、どれもこれも哀れげな元気のない顔をしているのを見た。
「私は、内地へ帰らして下さい!」
 その眼は、純粋な憐れみを乞うていた。
「どうだ、もう並食を食うとるんだろう?」
 軍医は、上唇を横にかすり取られた幼なげな男に、こうきいた。
「はい。」
「どれ、口を開けてごらん?」
 この男は、アングリ口を開けて見せた。
「よし! もうよくなっとるね。」
 そして、彼は、診断室を出て行くように、合図に手を動かした。その男は「よし」という声で中隊へかえされると感じて、
「私は、いつ、再び弾丸が降って来る下へ追いやられるような悪いことをしたんです!」
 と、子供らしい眼で訴えた。そして、そこら中を見まわした。軍医の表情には冷たい、固いものがあるばかりだった。
 その少年は、もう一度、上唇のさきが無くなった口を哀れげに拡げた、
「こんなにおとなしい無抵抗な者を殺してもいゝんですか!」と云うような眼をした。
「この眼に負けちゃいかん!」軍医は自分を鞭打った。
 耳朶《みゝたぶ》のちぎれかけた男も、踵をそがれた男も、腰に弾丸のはまった男も、上膊骨を折った男も、それ/″\、憐れみと、懇願の混合した眼ざしを持って弱々しげに這入ったきた。内地へ帰りたい慾求は誰れにも強かった。
「どいつも、こいつも、病気を誇張してやがるぞ!」軍医は考えた。
 栗本も同様に、憐れみを乞い求める眼と、弱々しげな恰好をして、軍医の前へやって行った。彼は、シベリアに残されるのだったら軍医の前にへたばろうと考えた位いだ。
「どうだな?」
「傷の下になんかこりのようなものが出来とるんですが。」
「手を伸ばせるかい?」
「いゝえ、まだ伸びません。」
「これを握ってごらん。」
 
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