氷河
黒島傳治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)扉《ドア》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)もぐら[#「もぐら」に傍点]が

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)用心しい/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

      一

 市街の南端の崖の下に、黒龍江が遥かに凍結していた。
 馬に曳かれた橇が、遠くから河の上を軽く辷って来る。
 兵営から病院へ、凍った丘の道を栗本は辷らないように用心しい/\登ってきた。負傷した同年兵たちの傷口は、彼が見るたびによくなっていた。まもなく、病院列車で後送になり、内地へ帰ってしまうだろう。――病院の下の木造家屋の中から、休職大佐の娘の腕をとって、五体の大きいメリケン兵が、扉《ドア》を押しのけて歩きだした。十六歳になったばかりの娘は、せいも、身体のはゞも、メリケン兵の半分くらいしかなかった。太い、しっかりした腕に、娘はぶら下って、ちょか/\早足に踵の高い靴をかわした。
「馭者《イズウオシチイク》! 馭者《/\》!」
 ころげそうになる娘を支えて、アメリカ兵は靴のつまさきに注意を集中して丘を下った。娘の外套は、メリケン兵の膝頭でひら/\ひるがえった。街へあいびきに出かけているのだ。娘は、三カ月ほど、日本兵が手をつけようと骨を折った。それを、あとからきたアメリカ兵に横取りされてしまった。リーザという名だった。
「馭者《イズウオシチイク》!」
「馭者《イズウオシチイク》!」
 麓の方で、なお、辻待の橇を呼ぶロシア語が繰りかえされた。
 凍った空気を呼吸するたびに、鼻に疼痛を感じながら栗本は、三和土《たゝき》にきしる病室の扉《ドア》の前にきた。
 扉を押すと、不意に、温かい空気にもつれあって、クレゾールや、膿《うみ》や、便器の臭いが、まだ痛みの去らない鼻に襲いかゝった。
 踵を失った大西は、丸くなるほど繃帯を巻きつけた足を腰掛けに投げ出して、二重硝子の窓から丘を下って行くアメリカ兵を見ていた。負傷者らしい疲れと、不潔さがその顔にあった。
「ヘッ、まるでもぐら[#「もぐら」に傍点]が頸を動かしたくても動かせねえというような恰好をせやがって!」
「何だ、君はこっちから見ているんか。」
「メリケンの野郎がやって来たら窓から離れないんだよ。
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