一本にすがりつこうとしたのが誤っていたのだ。栗本は、それが真実だと思った。病院は負傷者を癒すために存在している。負傷者を癒すと弾丸がとんでいるところへ追いかえすのだ。再び負傷すると、またそれを癒して、又追いかえすだろう。三回でも、四回でも、五回でも。
 一つの器械は、役に立たなくなるまで直して使わなければ損だ。それと同じだ。そのために病院の設備はよくしなければならない! 恐らくこれからさき、ます/\よくされるだろう。しかし、それは吾々には何にもなりはしない。
 栗本は、ドキリとした瞬間から、急激に体内の細胞が変化しだしたような気がした。彼はもう失うべき何物もなかった。恐るべき何者もなかった。どうせ死へ追いやられるばかりだ。

 彼等は丘を下って行った。胸には強暴な思想と感情がいっぱいになっていた。足を引きずっているものがある。ひょっく/\跛を引いている者がある。防寒帽の下から白い繃帯がはみ出している者がある。彼等は、銃をかつぎ、弾薬盒と剣を腰にまとっていた。どの顔からも、まだ、患者らしい疲労がとれていなかった。
 すが/\しい朝だ。バイカル湖の方から来る風に、雪を含んだ雲が吹き払われて、太陽が遠い空に素裸体になっていた。彼等は、今、気がねをすべき何者もなかった。何者にもとらわれることはいらなかった。鬱憤とした思想と感情は、それを慰める手段を取るのが自分達に当然だと考えていた。
 新しい雪は、彼等の靴の重みにボコ/\落ちこんだ。彼等は、それを蹴って歩いて行った。……
[#地から1字上げ](一九二八年十一月)



底本:「黒島傳治全集 第一巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年4月30日第1刷発行
※「シベリア」と「シベリヤ」の混在は底本通りにしました。
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2004年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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