きなり事務室へとびこんで来た。彼は吃驚《びっくり》した。
 お母は、息を切らし、虫がつめた子供のような眼をして、どういっていいかわからないものゝように、何も喋れなかった。幹太郎はそれを見たゞけで、すぐ、すゞがかっぱらわれたのではないかと不安にされた。
「早よ、S病院、去《チュイ》。あなたのお父ツぁん、負傷あります。日本太夫《リベンタイフ》、診《み》て、出血あります。クヮイクヮイデ。」
 詰襟の善人らしい支那人は、日本語と、支那語を、ごちゃごちゃに使った。早く、幹太郎に用談を伝えようとあせる。距離のある眉と眉の間に、皺をよせた。あせると、あせるほど、日本語は舌の先でもつれてしまった。業を煮やして、とうとう、支那語ばかりで叫んだ。分った。
 幹太郎は、軽蔑の眼を、小山とかわして冷笑している支配人に、むっとするものを抑えて、一言、ことわった。そして、すぐ、病院の方へとび出した。兵士たちが、街上に撤退する拒馬を重そうにひきずっていた。
「ちょっと待ちなさい。」母があとから呼んだ。
「……。」
 幹太郎は、母だと知りつゝわざと返事をしなかった。
「ちょっと待ちなさい!」母は繰りかえした。
「何で
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