関に這入った瞬間から、帰えりに、観音開きの門を出て、なお、も一度、あとを振りかえるその時間まで、十二時間でも、十五時間でも、その間、一分間も、彼女の、顔や、頸や手から、微笑を含んだ、怖げな眼を離さなかった。それが、すゞには、窮屈で、息苦るしかった。
 その執拗な視線は、彼女が、用事をして、こちらからは、彼を見ていない時にも、やはり注がれていた。そのことを、彼女は感じた。
 ときどき、彼女は、どうかすると、中津の濃い毛だらけの頑丈な二本の腕が、うしろから無遠慮に自分を抱きしめて、首筋のあたりを、熊のようになめ[#「なめ」に傍点]やしないかと気にかかった。ぞッとした。
 兄がいないと、なお、この恐怖は強かった。母もいなくなると、恐怖と危険は、もっと、もっと身に迫るような気がした。
 すゞは、妹と、歩きかねる甥とを頼りにするような心持になった。小鳥のように、隅の方にうずくまっていた。
 幹太郎は、この一家を襲っている二つの恐怖を感じた。同時に、妹も母も、支那兵の乱暴に対する強迫観念のようなものは、戦慄するほど強いが、中津の恐ろしさは、女達が、殆んど意識していないと思った。殊に、それを気にとめ
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