落ちた。三十度以上の急な斜坑を、落ちた岩は、左右にぶつかりながら、下へころころころげて行った。
 七百尺に上ると、それから、一寸竪坑の方によって、又、上に行く斜坑がある。井村は又、それを這い上った。蜘蛛の糸が、髪をのばした頭にからみついた。汚れた作業衣は、岩の肌にじく/\湿った汚物でなお汚れた。彼は、こんな狭い坑道を這いまわっている時、自分が、本当に、土鼠《もぐら》の雄であると感じた。タエは、土鼠の雌だ。彼等は土の中で密会する土鼠の雄と雌だった。
 彼は、社会でうろ/\した末、やっぱし俺等のような士鼠が食って行けるのはこの鉱山だけだ、どこをほっついたっていゝこたない、と思って帰って来た。
 だが土鼠には、誰れの私有財産でもない太陽と澄んだ空気さえ皆目得られなかった。坑外《おか》では、製煉所の銅の煙《けむ》が、一分間も絶えることなく、昼夜ぶっつゞけに谷間の空気を有毒瓦斯でかきまぜていた。坑内には、湿気とかびと、石の塵埃が渦を巻いていた。彼は、空気も、太陽も金だと思わずにはいられなかった。彼は、汽車の窓から見た湘南のうらゝかな別荘地を思い浮べた。金がない者は、きら/\した太陽も、清澄な空気
前へ 次へ
全38ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
黒島 伝治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング