よると、誠心誠意主人のために働いた者には、解雇又は退隠の際、或は不時の不幸、特に必要な場合に限り元利金を返還するが、若し不正、不穏の行為其他により解雇する時には、返還せずというような箇条があった。たいてい、どこにでも主人が勝手にそんなことをきめているのだった。与助は、最初から、そういうことは聞いたこともなかった。
 彼は、いつまでも困惑しきった顔をして杜氏の前に立っていた。
「どうも気の毒じゃが仕様があるまい。」と杜氏は与助を追いたてるようにした。
「でも、俺ら、初めからそんなこた皆目知らんじゃが、なんとかならんかいのう。」彼はどこまでも同じ言葉を繰りかえした。
 杜氏は、こういう風にして、一寸した疵《きず》を突きとめられ、二三年分の貯金を不有にして出て行った者を既に五六人も見ていた。そして、十三年も勤続している彼の身の上にもやがてこういうことがやって来るのではないかと、一寸馬鹿らしい気がした。が、この場合、与助をたゝき出すのが、主人に重く使われている自分の役目だと思った。そして、与助の願いに取り合わなかった。
 与助は、生児《あかご》を抱いて寝ている嚊のことを思った。やっと歩きだした二人目の子供が、まだよく草履をはかないので裸足《はだし》で冷えないように、小さい靴足袋を買ってやらねばならない。一カ月も前から考えていることも思い出した。一文なしで、解雇になってはどうすることも出来なかった。
 彼は、前にも二三度、砂糖や醤油を盗んだことがあった。
「これでも買うたら三十銭も五十銭も取られるせに、だいぶ助けになる。」妻は与助を省みて喜んだ。砂糖や醤油は、自分の家で作ろうにも作られないものだった。
 二人の子供は、二三度、砂糖を少し宛《ずつ》分けてやると、それに味をつけて、与助が醤油倉の仕事から帰ると何か貰うことにした。彼の足音をきゝつけると、二人は、
「お父う。」と、両手を差し出しながら早速、上《あが》り框《がまち》にとんで来た。
「お父う、甘いん。」弟の方は、あぶない足どりでやって来ながら、与助の膝にさばりついた。
「そら、そら、やるぞ。」
 彼が少しばかりの砂糖を新聞紙の切れに包んで分けてやると、姉と弟とは喜んで座敷の中をとび/\した。
「せつ[#「せつ」に傍点]よ、お父うに砂糖を貰うた云うて、よそへ行《い》て喋るんじゃないぞ!」
 妻は、とびまわる子供にきつい顔を
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