「セルギウスさん。わたくしはこれから身持を改めます。どうぞわたくしをお見棄下さらないで。」
「宜しいからお帰り下さい。」
「どうぞ御勘辨なすつて、わたくしを祝福して下さいまし。」
板為切の奥から声がした。「父の名、御子《みこ》の名、精霊の名を以て祝福します。お帰りなさい。」
女は欷歔《すゝりなき》をして立ち上つて庵室を出た。
外にはいつも此女に附き纏つてゐる辯護士が来て待つてゐた。「とう/\わたしが賭に負けましたね。どうも為方《しかた》がありません。どつちの方にお掛けですか。」
「どちらでも。」女は橇に乗つた。
女は帰途《かへりみち》に一言《ひとこと》も物を言はなかつた。
一年立つてからマスコフキナ夫人は尼になつた。矢張|山籠《やまごもり》をしてゐるアルセニイと云ふ僧の監督を受けて、折々此人に手紙で教を授けて貰つて、厳重な僧尼の生活を営んだ。
四
セルギウスはその上七年間程山籠をしてゐた。最初は人が何か持つて来てくれると、それを貰つた。茶だの、砂糖だの、白パンだの、牛乳だの、又薪や衣類などである。併し次第に時が立つに連れて、セルギウスは自分で厳重な規則を立てゝそれを守つて行くやうになつた。何品《なにしな》に依らず万已むを得ない物の外は、人が持つて来ても拒絶した。とう/\一週間に一度貰ふ黒パンの外には何品をも受けぬやうになつた。よしや人が物を持つて来ても、悉《こと/″\》く草庵に尋ねて来る貧乏人に分配して遣つてしまふ。
セルギウスはいつも庵室内で暮らしてゐる。祈祷をしたり客と話をしたりしてゐるのである。その客の数が次第に殖えて来た。寺院に詣《まゐ》るのは一年に三度だけである。その外《ほか》で庵室から出るのは、木を樵《こ》る時と水を汲む時とに限つてゐる。こんな生活を五年間続けてゐた後に、前段に話したマスコフキナ夫人との出来事があつたのである。此出来事は程なく世間に広く聞えた。夫人が夜庵室に来た事、それから女の身持が変つた事、尼になつた事が聞えたのである。
此時からセルギウスの評判が次第に高くなつた。尋ねて来る人の数が次第に殖えた。僧侶で草庵の側に来て住むものが出来て来た。側に宿泊所をさへ建てることになつた。世間の習慣で何事をも誇張するために、セルギウスのした事は大した事のやうになつて、その高徳の評判は人の耳目を驚かすやうになつた。客が遠方
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