《あた》つて土間に落ちた。指の痛をまだ感ぜないうちに、指の地に落ちた音が聞えた。併しまだ気の落ち着かぬうちに灼《や》くやうな痛がし出して、たら/\流れる血の温みを覚えた。セルギウスは血の滴る指の切口を法衣の裾に巻いて、手をしつかり腰に押し付けた。そして庵室の中に這入つて、女の前に立つた。「どこかお悪いのですか。」声は静であつた。
 女はセルギウスの蒼ざめた顔を仰ぎ視た。僧の左の頬は痙攣を起してゐる。女は何故《なにゆゑ》ともなく、急に恥しくなつて、飛び上つて、毛皮を引き寄せて、堅く体に巻き付けた。「わたくし大変に気分が悪くなりましたものですから。きつと風を引いたのでございませう。あの。セルギウスさん。わたくしは。」
 セルギウスはひそやかな歓喜に赫く目を挙げて女を見た。そして云つた。「姉妹よ。あなたはなぜ御自分の不滅の霊魂を穢《けが》さうとなすつたのですか。世の中には誘惑のない所はありません。併し自分の身から誘惑の出て行くもの程傷ましいものはありますまい。どうぞあなたも祈祷をなすつて下さい。主が我々にお恵をお垂下さるやうに。」
 女は此詞を聞きながら、セルギウスの顔を見てゐた。そのうちなんだかぽた/\と水のやうな物が床の上に落ちる音がした。女は下の方を見た。そしてセルギウスの左の手から法衣をつたつて血の滴つてゐるのを見付けた。「あなたお手をどうなすつたのです。」口でかう云つた時、女はさつき前房で物音のした事を思ひ出した。そこで忙《いそが》はしくランプを手に持つて、前房へ見に出た。床の上には血まぶれになつた指が落ちてゐた。女はさつきのセルギウスの顔よりも蒼い顔をして、引き返して来て、セルギウスに物を言はうとした。
 セルギウスは黙つて板為切の中へ這入つて、内から戸を締めた。
 女は云つた。「どうぞ御免なすつて下さいまし。まあ、わたくしはどういたして此罪を贖《あがな》つたら宜しいでせう。」
「どうぞ此場をお立ち退き下さい。」
「でもせめてそのお創に繃帯でもいたしてお上申したうございますが。」
「いや。どうぞお帰り下さい。」
 女は慌《あわたゞ》しげに、無言で衣物を着た。そして毛皮を羽織つて寝台に腰を掛けた。
 その時森の方角から橇の鐸《すゞ》の音がした。
「セルギウスさん。どうぞ御勘辨なすつて下さいまし。」
「宜しいからお帰り下さい。主があなたの罪をお赦し下さるでせう。」
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