よ、神の子よ、我に御恵《みめぐみ》を垂れ給へ」と繰り返してゐた。セルギウスの耳には何もかも聞えてゐる。女が着物を脱いだ時、絹のさら/\と鳴る音も聞えた。セルギウスは気が遠くなるのを感じた。次の一刹那には堕落してしまふかも知れぬやうな気がした。そこで暫くも祈祷を絶やさなかつた。此時のセルギウスの感情は、昔話の主人公が、背後《うしろ》を振り返つて見ずに、前へ前へと歩いて往かなくてはならぬ時の感情と同じ事だらう。セルギウスには身の周囲に危険があり害毒があるのが分つてゐる。そしてその方を一目も見ずにゐるのが、唯一の活路だと云ふことが分つてゐる。それに突然、どうしてもあつちの方を見なくてはゐられないと云ふ不可抗力のやうな慾望が起つた。それと同時に女の声がした。「お聞きなさいよ。あなたそれでは人道にはづれてお出なさいますよ。わたくしは死んでしまふかも知れません。」
「好いわ。己はあいつの所へ往つて遣らう。併し昔の名僧は片手を火入《ひいれ》の中へ差込んで、片手で女の体を押へたと云ふことだ。己もさうしよう。だがこゝには火入はない。」セルギウスは四辺《あたり》を見廻した。そしてランプが目に付いた。セルギウスは指をランプの火の上に翳《かざ》して額に皺を寄せて、いつまでも痛を忍んでゐようと思つた。最初はなんの感じもしなかつた。それから指がたしかに痛むとか、又どれだけ痛むとか云ふことが、まだはつきり知れぬうちに、セルギウスは痙攣のやうな運動を以て手を引いた。そして手の先を振り廻した。「いや、これは己には出来ない」と、セルギウスは諦めた。
「神様に掛けてお願します。ほんにどうぞ来て下さいまし。わたくしは死にます。あゝ。」
「己はとう/\堕落してしまはんではならぬのか。いや/\。断じてさうはなりたくない。今すぐに往きます。」かう云つてセルギウスは扉を開いた。そして女の方を見ずに寝台の側を通つて前房へ出た。そこにはいつも薪を割る木の台がある。セルギウスは手探でその台の所へ往つた。それから壁に寄せ掛けてある斧を手に取つた。セルギウスは「只今」と声高く答へて、左の手の示指《ひとさしゆび》を薪割台の上に置いて、右の手に斧の柄《え》を握つて、斧を高く振り上げて、示指の中の節《ふし》を狙つて打ち下した。指はいつもの薪よりは容易《たやす》く切れて、いつもの薪と同じやうに翻筋斗《とんぼがへり》をして台の縁に中
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