である。
 女は思つた。「きつと今額を土に付けて礼をしてゐるのだらう。だけれどもそれがなんになるものか。丁度わたしがこつちであの人の事を思つてゐるやうに、あの人はあつちでわたしの事を思つてゐるのだもの。わたしがあの人の姿を思つてゐるやうに、あの人はわたしの此脚の事を思つてゐるのだもの。」とう/\女は濡れた靴足袋を脱いでしまつた。それから素足で寝台の上を歩いて見て、しまひにはその上に胡座《あぐら》を掻いた。それから暫く両手で膝頭を抱いて、前の方を見詰めて、物を案じてゐた。「ほんにこゝは、沙漠の中も同じ事だ。こゝで何をしたつて、誰にも分りやあしない。」
 女は身を起した。そして靴足袋を手に持つて、炉の側へ往つて煙突の上に置いた。それから素足で床を軽く蹈んで、寝台へ戻つて来て、又その上で胡座を掻いた。
 板為切の向側ではまるで物音がしなくなつた。女は頸に掛けてゐた、小さい時計を見た。もう二時になつてゐる。「三時頃には連の人達が此庵の前に来る筈だ」と女は思つた。もうそれまでには一時間しかないのである。「えゝ。詰らない。こゝにかうして一人で坐つてゐて溜まるものか。馬鹿。わたしともあるものがそんな目に逢ふ筈がない。すぐに一つ声を掛けて見よう。」女はかう思つて呼んだ。「セルギウスさん。セルギウスさん。セルゲイ・ドミトリエヰツチユさん。カツサツキイ侯爵。」
 戸の奥はひつそりしてゐる。
「お聞きなさいよ。あなたそれではあんまり残酷でございませう。わたくしはあなたをお呼申さないで済むことなら、お呼申しはいたしません。わたくしは病気です。どうしたのだか分りません。」女の声は激してゐる。「あゝ。あゝ。」女はうめいた。そして頭を音のするやうに寝台の上に投げた。不思議な事には、実際此時|脱力《だつりよく》したやうな、体中が痛むやうな、熱がして寒けがするやうな心持になつたのである。「お聞きなさいよ。あなたがどうにかして下さらなくてはならないのです。わたくしどうしたのだか分りません。あゝ。あゝ。」かう云つて女は上衣の前のボタンをはづして胸を出して、肘までまくつた腕を背後《うしろ》へひろげた。「あゝ。あゝ。」
 此間始終セルギウスは板為切の奥に立つて祈祷してゐた。とう/\晩に唱へるだけの祈祷の文句を皆唱へてしまつて、しまひには両眼の視線を自分の鼻の先に向けて、動かずに立つてゐて、「イエス・クリスト
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