なか深い趣味を有して居られるということがうかがわれて頭がさがるのを覚えた。

        光華門

 翌日、この地に博物館があるというので、それをさっそく観に出かけた。博物館では、きっと昔の人のかいたいい作品が数多く観られることであろうと楽しみにして出かけてみたが、中へはいってみると案に相違して何もこれというほどの観ごたえのあるものがなかった。
 玉石の大きな盤にこまかな文字を書いたものや、乾隆の墨や朱などが沢山あり、その他書の巻子本もあったが、絵画の点ではあれだけの絵画国でありながら見るべきものの一つもなかったというのは、いかにも淋しいおもいがした。
 他には石仏の重い、動かせないようなものがあったり、動物の剥製などがあった。虎や豹や鳥の剥製をみた。
 日本の博物館のように、何時でも行きさえすれば見られるというのではなく、前から申し込んでおいて行かなければならない、私たちが出かけて行ってみると、一つ一つ部屋を鍵であけて観せてくれるという有様であった。
 日本は日本の国体がこういう国体である。万邦無比の国体だから古来の名作だけについて考えてみても数々のものが古くから散じたり、滅びたりしないでちゃんと残っている。
 日本の名家やお寺に行くと、日本古来の名作のみならず、支那の名作逸品が大切に保存されている。大切に異国の文化が保存されきたったのである。これは何という有難いことであろうか。日本の国民として、大きな誇りとよろこびを感ずるのである。ところが支那ではそういうものがなくなっている。支那はああいう打ちつづく革命のために、自国の貴重な絵画を散じほうむってしまったのであるが、彼《か》の国のために惜しんでもあまりあるものがある。
 それから今度の戦蹟を歩いてみた。光華門を訪うた。折りよくこの戦の時、直接戦争にたずさわっておられた将校の方がおられて、当時の皇軍の奮闘奮戦の模様をいろいろとつぶさに御説明して下さった。城門の上にのぼって、あのあたりに敵がいてこういう攻防戦が展開されたと言ってまことに手にとるように物語って下すった。今ここにあるいているところは支那兵の死骸でいっぱいであった、などとも言われ、城門の下のところに土饅頭の小高いのが彼処此処にみられた。
 松篁の行った時にはまだ骨がところどころに残っていたそうであって、雨などにさらされて秋草がそこに咲いていたりして、なんとも言いようのない神秘な感じがしたと語っていたが、私の行った時はそういうさびしいもの、目を傷ましめるものは何にも残っていなかった。その辺で討死せられた皇軍の方々の墓標があり、花を供してあった。
 将校のお話は真に迫っていて、聴く者みなこみあげてくる涙を禁じ得なかったのである。

        悠々風景

 中山陵や明の孝陵や石人石獣をみたり、紅葉がなかなかきれいであった。
 南京の街はなかなかいい町であった。秦准、これは詩人が詩に詠んだり、画舫などもあり、夏の夜など実に美しいところであったらしいが、今は水はきたないし、画舫はくだけてしまってみるかげもない船があちこちに横たわっていた。橋のきわには乞食がいっぱいいる。そのあたりは食物店が、青天井なりで店を拡げていて、鍋のところに支那人があつまって、油でいためたものを食べている。また、そういう道幅のせまい処で、野天で縫いものをしているものもある。町人の食事も表でやっている。行きあたりのところに小学校があり、級長の子供が棒などもって他人のはいって来るのをとがめている。そのうちに生徒が帰り始める。生徒の服装はまちまちであるが別に見苦しくはない。学校帰りの子供が一銭くらい出して飴湯などを呑んでいるのを見ると、改めて支那人の胃袋について奇異の感をいだく。衛生などということは支那人には全く意味のないものと見える。
 日本の町の横筋は、小路といってもかなりの道幅があって、ここのようにせまくはない。支那の街は大通の横すじの町は自動車がはいると人などとても通れたものではない。どこへ行っても横町は極めて狭いのである。両側の家はぺちゃっとしたもので、壁みたいなものがつづいていて、そのところどころに入口だけが口をあいている。内部をのぞいてみるとどれも暗い家ばかりである。これではなるほど家の中で生活することが出来ないであろう。家の中は寝ることと食べるだけの用をするところであると言っていいだろう。日本の家のように陽あたりがいいというような室がない、だから住民はわざわざ食物を表へ持ち出してたべているらしい。
 支那は石が豊富なのであろうか、どこへ行ってみても街は石だたみになっている。人力車にのると石だたみの上を走るからゆれ通しで苦しい。それに梶棒がやたらに長い。この車にのって行くと、仰向いて車の上で飛びあがってまるで大波にでもゆられて行くような感じであった。
 ごみごみとした通りをすぎると、ちょっとした富豪の家があって、中へはいると庭には太湖石が置いてあって、樹木がつくってある。それを出ると青天井の便所があったりする。散髪も戸外でやっている。それを私がスケッチしはじめると、物見高い子供や大人がよって来る。どこも同じ野次馬風景である。散髪屋も客を放りぱなしでスケッチを見にやって来るのである。客はそれでも文句ひとついうでもなく、だまって散髪屋が帰って来て再びとりかかるまでじっと待っている。
 人が沢山たかって来ると何という異臭の強いことであろうか……。
 女の人が店番をしていて御飯をたべている。大きなおはちの中には黄色いごはんが入っていて、おかずもなしにこちこちたべている。とにかく食べられたら結構というのか、そんなものも食べられない人が多いらしいのである。
 扇屋へ買物にはいったら乞食が二人ほどついて入って来た。乞食もなかなか多い。
 玄武湖に行くと、ここには柳が沢山ある。画舫があり、夏は蓮が咲いて美事であるという。その堤に柳が枝を垂れていて、そのあたりに牛が放ち飼いにされている。牛も極めて鷹揚でおとなしいものである。牛同志角突き合いもせずおとなしくのんびりと歩いている。女の子が一人だけついていてのどかな風光であった。
 時には驢馬が通り過ぎてみたり、豚が行列して沢山やって来たりする。そういう京都などではとてもみられない珍しい景色が見られたのである。

        揚州料理

 南京の帰りに鎮江へ行き、そこで花月という料理屋へ行ってみた。
 この家には畳など敷いてあって、むこうの座敷からは三味線の音が流れて来るといったちょっと内地を偲ばせるものがあった。
 軍と連絡をとってくれた兵隊さんも一緒だったが、このような料理屋で皆とくつろいで一杯やるのはいいとみえて、大へん楽しそうにしておられた。
 やがてその兵隊さんの案内で舟に乗って揚州に行き、柳屋という宿屋へ着いた。
 ここでは駅長さんがいろいろと心配してくれた。私は現代化されていない、わげ[#「わげ」に傍点]をゆうた支那らしい女性を写生してみたいと思った。どうも現代支那女性はみな洋風になってしまっていて、若い娘さんはパーマネントをかけている。そうではなしに是非純支那風の女性を描いてみたい。純支那風の人というと中年の婦人にたまたま見かけるだけなので、そういうモデルを探した。ところが揚州は古来美人の産地として有名なところであり、唐の楊貴妃もここの産であったという。揚州へ行けばきっとそういう婦人がいるという話をきいたのであった。ところがここの知事さんのところで働いている恰好の支那婦人をさがして駅長さんがつれて来てくれたのであった。私の求めていた支那風のわげを結った中年婦人であった。幸い宿まで来てくれたので、私は思うぞんぶん横向きや、七三向きの写生をすることが出来た。
 その晩は知事さんが招待をして下すった。日が昏れてから俥にのって出かけた。ここのは揚州料理である。揚州料理はちょっとあっさりとして、普通の油っこい支那料理とは趣を異にしているのが珍しい。
 しかし元来私は小食のたちで、鱶の鰭、なにかの脳味噌、さまざまなものの饗応にあずかったがとても手がまわらず、筍だとか椎茸だとかをほんのぽっちりいただいて、揚州料理も参考までに食べたというにすぎない。

        鶴のいる風景

 南京での招宴にも、美しい娘さんに逢うことが出来た。夜はお化粧を濃くしていたが、ひるは極くうす化粧であった。
 さて揚州で一泊したその翌日、屋根のある船で運河を上った。
 娘と母親の船頭で、その日はまことにいい天気、静かな山水、向こうに橋、橋の上に五つの屋根があって、これを五亭橋というのだそうだが実に色彩の美しい橋であった。その橋際で船をとめ、橋の上にあがって向こうをみおろすと、五、六軒の家屋が散在しているのが望まれ、童子や水牛がいたり、羊が放ち飼いにしてあったり、まことに静かな景色である。秋のことであったから花はないが、桃の咲く時分だったらさしずめ武陵桃源といった別天地はこれであろうとおもわれた。
 それから船をすすめてゆく。藪があったり、なだらかな山があったり、私にはその山が蓬莱山のようにおもわれた。そこにはお堂があって、大きい方を平山堂と呼び、小さい方は観音堂というのだそうである。
 その辺の景色がこれまた非常によいもので、沢があって大きな鳥がおりて来たなと思ってみるとそれは何と丹頂の鶴であった。それに見入っていると、いまにも白髪の老人が童子に琴でも持たしてやって来るのではなかろうかとおもわれるほどまるで仙境に遊ぶ心持ちがされた。風景専門の人がいたら垂涎されるに違いない、いい画題がいくらも見あたった。

        蘇州の情緒

 それから蘇州へ行った。叭叭鳥や鵲の群れて飛ぶのんびりした景色を汽車の窓から眺めていた。童子が水牛にのってのどかに歩いているところや、羊が点々と遊んでいるところなどがみられた。百姓家があったり、家が潰れかかっているさまも却って雅趣がみえて嬉しかった。小川があると、支那の田舎娘が菜を洗っている。どの畠にもお墓の土饅頭が点在するのであった。
 だがまたしても思う……何という支那は大きな国であろう、土地の広大をのみいうのではない。
 汽車は大きくて、中がゆったりとして乗心持もよかった。
 蘇州の寒山寺は別していい寺というほどのこともないが、この寺の向こうには有名な楓橋があって、その橋の上から見下ろしておもいをはせれば、楓橋の夜泊、寒山寺の鐘啻《しょうてい》ひびきわたるところ「落月鳴烏霜満天……」の詩が生まれたのも宣《むべ》なるかなと思ったが、この辺の景色がいい。
 蘇州の獅子林をみたが、ここは太湖石が沢山あって、ずいぶんと広い庭園であった。
 太湖石は絵ではみていたが、真物は絵とはよほど変っていた。第一、太湖石は素晴しく大きなものである。それに真物は絵とちがって黄土色を呈しているのである。
 獅子林は真中が池である。裏手の方に門があり、太湖石があり、笹があり、芭蕉があり、苔もここのはさびて白緑色を呈していて、陽のかげに生じているのは群青色になっている。仇英の描く群青や緑青、また斑をもったきれいな苔を生じた太湖石は、実物をみて大いにこれを美化したものであることがわかった。実際の太湖石は南画の花鳥の傍らにあるかわいらしいものよりも、はなはだ大きなものが多かった。人がくぐれるほどの大きな穴があいている。ついだのもある。はなはだ大きなのは中途で継いであるらしい、そんな形跡がみえた。
 ここの富豪の婦人の部屋などもみせてもらった。朱の色の梯子、欄干があるなど奇麗なものだった。二階の床は木を用いているが、階下の部屋は石だたみで、冬は火の気がないと寒いものだろうと私にはおもえた。門を入るとまた次の門がある。幾つもの門をくぐってやっと主人の居間に達する。支那の富豪たちが外敵に対してどれほど深い用心をしているかが、これをみただけでもよくわかる気がする。ずっと遠いむかしからのながいながい不安の歴史が、おのずと彼らにこのような警戒心を備えさせてしまったのであろう。
 支那人は酒をのんでも決して酔い倒
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