れるようなことがないという。酒を呑んで殺されてもしようがないからだ。呑気きわまる支那人の別の一面にそんなところがあるのを私は知った。
支那靴
蘇州から上海へ帰り、街路風景や、食物屋、散髪店などのスケッチをこころみた。
一体、支那人の着ている服はどういうぐあいにつくられているのであろうかと思い、支那服を一着買うつもりになった。支那服や支那織の布地を売っている専門店の売り場に私の気に入った服が二着並んでいたが、そのうち模様のいい方を一着もとめた。帯にでもするのだろうか、地紋様の美しい布を買っている日本人もあった。私は沢山必要でないが、とてもいい紋様の布地があったのでそれを五、六寸きって売ってくれと言ったところが、売場の支那人が切るのは困ると言ってどうしても売ってくれない。するとちょうど売場の向こう側にいた日本婦人が、突然私の方に向かって、先生この着物にはどちらの帯が似合いましょうか見わけて下さいと言って、着物に対して似合いの帯を二つ持って来て私のまえに拡げるのである。私たちのことが上海の新聞に出ていたので、この櫛巻にした私の姿を知っていたのであろう。そこで私は自分のいいとおもうのを言ってあげた。その日本婦人は大へん喜んでさっそくそれを買ったのであるが、その時その婦人が支那人の店員に切ってあげなさいという意味の言葉を支那語で言ってくれたので、やっとのこと私は欲しかった布地を切って売ってもらうことが出来た。
「ほかの人キラン、今日は特別キル」
売場の支那人がそんな愚痴をこぼしていた。
人にすすめられて二階つきのバスにも乗ってみた。バスを降りようとすると、沢山の支那人が降り口に押し合っていて年寄りの私などなかなか降りることが出来そうもない。困惑していると、メンメンチョ、こう言って車掌が乗り手を止めて私を降ろしてくれるのであった。
支那靴などにもとても美しいものがあった。龍や花紋様が刺繍で色美しく入れてあってなかなか美術的なものである。私はそれも買い入れた。何も支那靴など買って来てそれを穿こうというわけではないが、その美しさにひかれて買ってしまったのである。
連絡船
往路の長崎丸は静かな船旅であったが、帰途の神戸丸は上海を出離れるとすぐからすこしゆれだした。人々はすぐ寝こんだので私もそれにならい、ついに船に酔わずに戻ることが出来た。
長い旅の経験のない私にとって一ヵ月といえば大へんなものであったが、顧みてほんの短い時日にしか思われぬのが不思議である。この年になって日本以外の土地に足跡を残したことは思いがけぬ幸いであったと言わなければならないだろう。
だがいま自分は日本に向かっているのだと思うと、やはり沸々とした心楽しさがあるように思える。エンジンの響きが絶えず郷愁のようなものを私の身体に伝えて来る。
「陸が見えますよ」
と、言う声は本当になつかしいものに聞えた。激しい向かい風のなかに見え始めた故国日本の姿はまったく懐かしい限りであった。
その癖、帰りついて昨日まで支那人ばかりみていたのに、四辺《あたり》はどこを見ても日本人ばかりなのでどうにもおかしな気持ちがしてしかたがなかった。
みんなは「支那ぼけでしょう」といって笑っている。あるいはそうかも知れない……。
底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
1976(昭和51)年11月10日初版発行
1977(昭和52)年5月31日第2刷
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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