余齢初旅
――中支遊記――
上村松園
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)しげの家《や》という
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)雑|閙《とう》があり
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぐあい[#「ぐあい」は底本では「ぐあいい」]
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海を渡りて
年々、ずいぶんあわただしい生活がつづいている。こんな生活をいつまでもつづけていてはならないとおもう。
年中家にいて、電話がかかって来る。人がたえず訪ねてくる。ひっきりなしである、とてもめまぐるしい。その騒然雑然たるさまはとても世間の人たちには想像がつくまいとおもう。
世間の人々は、私の生活がこんなにわずらわしいとは思っていないにちがいない。もっとおちつき払った静かな深い水底のようにすみ切った生活とでも思っているにちがいない。しかし実際はそれとおよそかけはなれた生活である。
私は何とかしなければならないとかねがね考えていた。それはむろん健康に障るばかりではなしに心にゆとりがなくなるからである。そこでさる人のすすめに従って田舎の方へ家をつくったのであった。ここには松篁が行っている。松篁もそのことを考えたからであった。私も隠れ家のつもりでそこへ行っている。だけども仕事の手順の上から、ついそこへ行っている間がなかったりして、いかにもいそがしいこの人生の生活の桎梏から解放されて、瞑想にふけりたい、そうした念願はなおいまだ達せられないですぎて来たのであった。
今度の支那ゆきはその意味において一切のわずらわしさがなく、そしてもしそういうものがあっても向うの人がすっかりそれをやってくれるという約束であった。かりに汽車がさる駅につくとすると、私はだまって汽車をおりればよい。出口で人ともみ合わなくともよい。汽車にのればちゃんと私の座席がそこにとってくれてある。そういったわけで一切合財何から何まで先方の人がやってくれる。私は彼地で一枚の絵もかかなくてよい。皇軍の慰問も京都で色紙をかいてもって行くことにしたので、家を出てからは何にもかかなくてもよいようになっていた。そうして約一ヵ月ほどのあいだぽかんとして、無言の旅を続ければよい。もちろん口をきいても向こうには通じないのだし、人にやってもらった方がゆきとどくわけなのであった。そうして幾年来の生活からきれいさっぱりとかけ離れた旅行をすることになったのであった。生まれてはじめての旅といっていい、私にとっては長距離の、そしてながい日数の旅であった。
この旅行はよほど前からすすめられていたのであったが、なかなか実現が出来ずにそのままになっていたのを今度おもい切って決行することにしたのであった。
十月二十九日の晩、たしか十時半すぎであったとおもう。京都駅から汽車にのって出発した。汽車はこれから大阪をすぎ中国筋をまっしぐらに走りつづけて、関門海峡をへて、長崎にゆき、ここから船にのった。三十日は長崎の宿に一泊して、明くる三十一日の午前十時頃に長崎丸にのりこんだのであった。
天気は大へんよかった。船はたしか六千トンもあったかとおもう。その夜は船の中で寝て、翌日の昼頃にはもう上海へつくことになっていた。
夜があけて、船室から甲板に出てみると来し方の海水は青々としているけれども、行く手の海は赤い色をしている。それまでは島もなく目を遮るものとてもなかったが、ゆく手には石がごじゃごじゃに乱れ散ったようになっているのが望見される。そのあたりが上海だということであった。
船では華中鉄道の副総裁である田さんや夫人や秘書の方々と一緒であった。東京から上海へゆかれるので一緒に京都の駅で落ち合って出発したのであった。船の中では私はその人たちと一緒ににぎやかに語り合いながら海をつつがなく渡ってしまったわけであった。静かな航海であった。昼食はそれでも船の中で終えて、それから上陸すると上海北四川路にある新亜細亜ホテルに落着いた。それから皆と一緒に上海の街を自動車でみてまわることになった。租界の外なぞもみてまわった。
上海素描
上海というところをずっと一巡したあとの印象はどう表現したらいいのであろう。とにかくとても賑やかなところである。
そのくせ街幅は東京の銀座などのような広さはなくて、妙に狭いという感じがする。その両側に店が並んでいる。街路の真中を二階つきのバス、自動車、人力車などが通っているし、両側は人、人、人でいっぱいにつまっている。それが混然雑然としてとてもにぎやかであった。
ちょうど三度ほどそうして市中を自動車で走りまわって、フランス租界のところで降りて、大きなデパートすなわち永安公司があるので、そこへはいってみたりしたのであった。
そうして私はいろいろのことを感じた。上海は何という不可思議なところなのであろう。街の裏と表とではまるで地獄と極楽とが腹合せになっているというようなところである。
それから大金持と乞食とがまるでごった返しているのである。にぎやかな街には幾つも露地のような細い横筋の小さな通りがある。そこにはごたごたとした小さな食物の店がある。その家々に支那人が代わり代わり腰をかけて、油っこいものを、さもおいしそうに青天井の下でたべている。軒もひさしもない青天井の下ではさぞかし塵埃もおちて来ようと私にはおもえた。しかし支那人たちはそんなことには一向平気で、さもさもおいしそうにたべているのである。そこを一歩奥の方へはいり込むと、何とおどろくべきことか、まるで乞食の巣のような一種名状すべからざる怪奇なところがあり、うす気味悪い戦慄がおもわず肌を走るのをおぼえる。そこにはどんな深刻な犯罪があるかも知れない。どんな秘密がたくらまれているかも知れない。そういう印象を与える。
お天気の日には、ごみごみとした悪臭のするところに腰をかけて、のんびりした顔をしてしらみを取っているものがある。何の恥辱もなく、何の不安もなく、あたりまえの顔をしてやっている。のん気な底知れぬ沼のような怪奇さがただようている。そこの外のところに大きな賭博場が二つあり、インテリや金持ちなどが集まるところと、またいまひとつは無頼漢などがあつまって賭博に来るところがあるということであった。それをみせてあげるという話であったが、インテリのも無頼漢の方もどちらもみられなかった。しかしそういう怪奇な家の表を通って来たのであったが、仏租界はそんなに危険ではないらしいという話であったので、毎日大抵租界のしきりを越えてゆくのであった。
私は自動車のちょうど真中あたりに座をしめていた。そして私の両側に同行の人がのっていた。もう一台の方は男の人たちが乗っていた。二台ずつで毎日市中をみて歩いていたのであった。翌日、自動車でゆくと、大へんな雑|閙《とう》があり、そういうところに何ということであろう餓死人が倒れたまま放っておいてあるのだった。私はそれを何ということもなくとっくりとみていたかったが、歩いていると、それはただそれだけではなしに、実はそこにもここにもといったぐあい[#「ぐあい」は底本では「ぐあいい」]にあるのであって、誰も私のように物珍しくみているものなぞはないのである。通行人はそれを知らん顔をして通っているのである。日本ではそんな行き倒れなどがあると大騒ぎになるというところだが、この土地では誰も知らん顔をして通りすぎてゆくのであった。別に人だかりもしない、実に妙な悲惨なところである。
そうして蘇州へ行った時は、十一月中頃の寒い晩であった。そうすると上海中で昨夜の寒気で百人ほどの死人があったという。話をきいて私はすっかりおどろいてしまったのである。そういうところがあるかとおもうと、租界の外に大きなダンスホールがあったりするのである。そこでは夜の十二時頃から翌日の午前五時頃まで皆が踊り抜いているのだという。こういう歓楽場があり、有閑婦人や、おしゃれ息子や金持ちがゆくところとみえる。一方にはこんなところがあって、とても貧富の差のはなはだしい中産階級というものがないところとおもわれる。
映画館にもとても立派で大きなものがあって、よくはやっていてちょっとおそくてももう入ることが出来ないということであった。昼のあいだから切符を買っておく。休憩室があってこれがとても広いものであった。それに物資がとても豊富なものであって、自動車も二時間、三時間でも平気で待たしておく。芝居のはてるまで、何時間でも待っているといった有様であった。化粧品でも、毛糸でも、綿布でもふんだんに店頭に積んである。
支那の芝居
上海のユダヤ人の経営している大きなホテル、十一階建てのホテルがある。その五、六階から下をみおろすと、向うが海岸みたいなところになっている。そこを自動車が数珠つなぎのようになって並んでいる。ホテルの表でも必ず自動車が五、六台は止まっている。少しも自動車に不自由をすることはない。
私はこの上海に四日ほどいた。その間に軍の慰問をした。病院にも、鉄砲の玉があたっていて今だに弾痕が残っていて、激戦の日がおもわれるのであった。病院には傷病兵が沢山おられた。私たちがこうしてお訪ねすると皆が非常によろこんで下すったのは私にもうれしいものであった。そしていろいろと歓待していただいたのであった。
上海神社というのへ参詣する。十一月三日はこちらの明治節のいい日であったので、結婚式が幾組もあった。白装束のや三つ衣裳のあげ帽子をかぶったうら若いお嫁さんがいて、それはいずれも日本の娘さんであった。日本人同志の結婚である。
私は京都を出発する前にコレラやチブスや疱そうの注射をして行ったのであった。よほど用心してゆかないと蒋介石のテロにあったりしてあぶないなどといろいろそのお医者さんは注意してくれた。日本服を着てゆくと目立つといっておどかされたのであったが、上海の街を歩いてみると、日本服の娘さんや相当の老婦人が平然として歩いている。子守がいたり、沢山日本人がいたので私はすっかり安心してしまったのであった。
租界の内部の方はなお危険がない。ホテルのそばでは青物市場があってそこへ日本人の女の人が沢山青物を買い出しに行っているのをみたのであった。
一番終りの日に、支那芝居を一時間ほどみた。女形のいい役者が来ていた。筋書は分らなかった。さわがしい囃子であった。日本の芝居のように道具立てや背景がない。幕が後の方にたれ下がっているだけである。門でも必要なときにかついで出て来るといった塩梅である。門の印だけをおく、役者がその門をくぐってしまうとそれを早速たたんでうちへ入れてしまう。日本の能の道具のような象徴的なものであった。
もっとも芝居は蘇州でもちょっと田舎芝居をみた。南京から帰る蘇州特務機関長に汽車の中でおめにかかったのであったが、その時汽車の中へ日本人がどやどやとはいって来たが、上海の新聞に私の写真や記事を掲げていたので人々はそれをみていたらしく、汽車に乗り込むとその一行が新聞の主だなと分ったのであろう、向うから私に言葉をかけられた。この人は金子さんという中佐であったが、蘇州の庭園のいいところなどをみせてあげようという話であった。そこでその人の官舎へ来るようにとのことだったので、蘇州のしげの家《や》という日本宿に落着いてから、やがてその官舎の方へお訪ねしたわけであった。それは立派な広い大きな官舎で、晩餐の御馳走をいただいたのである。この人はとても話ずきで、それからそれへと話はつきなかった。
そこからの帰路、芝居をみたのであった。中佐はその時、私の秘書に芝居を案内させましょうと言われたので、自動車で芝居につれて行って下すった。この秘書はまた顔利きであったのか楽屋へはいって見ましょうと言うので、それをみせてもらうことになった。ごみごみした二階へあがってゆくと、それは一つの部屋でみな役者がそれぞれ持役に従った扮装をしているのであった。皇帝やチャリやいろいろの役になっている。皇帝になるのは鼻の高い、
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