いい顔をしている。そこには女役もまじっている。私は物珍しいのでそれをスケッチした。筆を走らせて写していると、写生帖をのぞき込んで、ふふんよく似ているというようなことを言うと、傍に扮装していた役者がまた手をやすめてのぞき込みに来るのである。舞台から帰って来ると襟を直したりして、自分も写してもらいたそうにしてやって来る。そういう田舎芝居の楽屋というものは却ってまた格別なおもしろさがあるものだと私はおもった。
役者の顔の隈取りはとても日本ではみられないおもしろさがあった。道化役者の鼻先を朱で塗り、そしてまた頬のあたりをすみと胡粉とで一、二筆線を入れたり前額のところへ赤と黄などを塗ったりして、それらが人の意表に出た何とも言いようのない扮装をしているのであって、すべてが象徴的なのであるから、写実的なこまごまとしたことはなくて、頗る簡単なものなのである。何か特別な衣裳をちょっと一枚上にひっかけて来たとおもうともうその持つべき役になりあがっているのである。
遊君
芝居を出て、暗い石だたみの道を歩くと、芸者屋がある。二階にあがってゆくと、その部屋には椅子が並べてあって、その端の方に、にやけた男が提琴をひいている、するとやがてそこへ芸者が出てくるのである。芸者は頬紅をつけている、そして今の提琴をひいている男の隣に腰をかけてその楽器に合わせて何か知ら意味の分らない唄を歌うのである。唄が終るとお茶をのんですぐ帰ってしまう。その次に来た芸者も同じように唄を歌って帰ってゆく。これは芸者をみただけなのであったからそうなのかも知れないが、この女たちといい、この部屋といい、どこが美しいというのでもない。美人だというのでもない。そういうところでも男は遊びにゆくものとみえる。やがて私はそうした異様な感慨にふけっていると、白粉気のない若い年頃の芸者が歌を唄うのが専門であるらしい。楽器を演奏するのは男の役目らしい。ここへは駅長さんも一緒に来てくれた。大体駅長さんはその土地、土地のいろいろな状況に通じた人であって、駅に下車するといつも駅長室で私はそれぞれの駅長さんに逢って、いろいろと案内してもらうのであった。揚州へ行ったときもおまんじゅう屋をみせてもらったりした。
雲林寺
上海から抗州へ行った。抗州では西湖のいちばんよくみえる高台になったところにある西冷飯店という宿に泊った。昼の二時頃、軍部と軍の病院とを訪問した。それから日の暮れ前にこの宿へついた。私はここで熱を出してしまった。
実は上海にいたとき風邪をひいたのであった。抗州へ出発するという前の晩に、上海でダンスホールを見に行った。そのことはすでに前に記したが、そのダンスホールは広いホールになっている。その真中は板敷であった。そこでちょっとさむいなと感じた。その時はすでに風邪をひいていたらしい。
抗州の宿についてみると、何の気なしでいたのだが、しきりとくしゃみが出た。それで薬を呑んで床にはいったのであった。体温計ではかってみると三十七度八分ほど熱が出ていた。お薬を呑んであたたかくして静かに床についたのであった。翌日になってみるとやはり熱がひかないので医者が来て、あたたかくして寝ているとよいというので、この日一日中床についていた。その翌日は、幸いにも熱が下ったが、外へ出るのはひかえて、三日ほどはその宿で静養していたのであった。そして四日目は抗州の山手に二つばかりある寺をみに行った。寺は玉泉寺というのと雲林院である。ここはやはり皇軍の進撃した戦蹟なのであった。山門なども半分はくだけていた。山手でさびしいところなので、まだあぶないものとみえて、軍の方から十四、五人の兵隊さんがトラックに機関銃をつんで物々しく護衛をして下すった。このためか、幸いに敵の襲撃は受けず、つつがなく参詣することが出来たのであった。玉泉寺には大きな池があった。池はきれいなすみ透った水を湛えていた。大きな鯉が幾十尾とも知れず泳ぎまわっていた。寺の坊さんが鯉に餌をやってくれと言ってキビ藁のようなものをもって来たので、それを鯉にやった。その坊さんはちょうど南画の山水の中にいるような坊さんで、鯉にやった餌と同じものをたべているのだということであった。そこから自動車で山手をのぼると雲林院へつくのである。ここには五つ六つくらいの女の子の案内人がいる。いずれも貧家の子であった。それに日本語がいつ習いおぼえたものかうまいものである。私たちが自動車を降りるとその女の子がいきなり走って来て「今日は」と言う。「御案内いたします」なぞと言う。ここには男の子や大人の案内人もいるが、それを出しぬいてこの女の子が一番かせぐらしい。自分が先に立ってどんどん案内してゆく。寺の奥の方には防空壕があった。今はそれも名物のひとつになってしまっている。暗い内部をローソクをひとりひとりが持って、足許を照らしながらはいってゆくが、中はなかなか広く出来ている。そこにはローソクの光に照らし出される寝室や、風呂場や、会議室や、便所などと、いくつにも仕切られた部屋部屋があった。それらはくねくねと曲りくねってつづいているのであった。すると例の女の子は「アスモト御注意下さい」などと案内するのには私もおもわずふき出さずにはいられなかった。
寺にはむろん仏像が祀ってあった。けれども日本の仏像にみられるような尊厳さ、有難味というものがない。それに塗ったのか貼ったのかは知らぬが仏像の金の色でも、本当の金色ではなくてやけに妙な赤味を帯びているのが不愉快な印象を与えた。
西湖は十一月の五日から四日間ほど滞在したが、この土地はあまり寒くはなかった。西湖を船でゆくと、湖中に島があったり、島には文人好みの亭があったりして、いろいろと風景に趣のあるよいところであった。蘇堤などもいい風情をもっている。雨の日などはことに蕭々とけぶる煙雨になんとも言えぬ明媚な美しさがあった。
銭塘江は、向う側が雨にくもってちょうど南画の墨絵の山水をおもわせ、模糊として麗わしかった。
唐子童子
南京の紫金山というのは、私の泊っていた宿の窓のところからちょうど額縁にはまったように見られたが、夕方などになると大へん美しい山に見えるのであった。
山の形は、富士山の峰のあたりが角ばったようになっていて、そこへ夕陽があたるとすっかり紫色になってしまう。そして山麓にある家々の瓦などが、どういう関係からは知らぬが金色に輝いていかにも美しいものであった。
紫金山という名はなるほどこの光景にふさわしいと思ったが、しかし朝になってみるとあれほど龍宮城かなにかのように美しかった金色の家々がまことにきたならしい家根であって一向おもしろくないものであった。
抗州の銭塘江には橋が懸っていたが、事変の時、敵兵がその真中のところを爆破して逃げてしまったので、そこで中断されて河中に墜落していた。ホテルの近くに山があって、その山中に道士が棲んでいる。昔から絶えず棲んでいるという話であったが、私は都合が悪くてそれを見にゆけなかった。
鎮江に甘露寺と金山寺がある。甘露寺からみると下が湖水になっていて、芦や葭がずっと生えている。この芦や葭をとって細工物をするのだという。こういう細工物の産出額は相当大きな金額にのぼるのだそうで、だからここでは芦や葭を非常に大切にするのだということであった。金山寺はずいぶん大きな寺であった。相当遠いところではあったが、自動車で楽にみることが出来た。
甘露寺へ行くと、石の段がずっと上まで続いている。石段の登り口のあたりにきたない民家がある。そこから四つぐらいから十までくらいのまずしい子供たちが出て来て、その石段をのぼるのに参詣者の腰を後から両手で押してくれるのであった。そして貰う駄賃がこの子供たちの収入になるのであった。その中にやはり貧しい子供には、昔の唐子をおもわせるような髪をしたのがいた。前のほうや、耳の上だけやに毛をのこして、あとはくりくりに剃って、残した毛を三つ組に編んだのや、つまんでしばったのや、いかにも昔の絵にある唐子のような風俗がこんな片田舎に却って残っているのを、不思議ななつかしみをもって眺めずにはいられなかった。
私の腰を三人ほどの子が押してくれるけれども私はそんなに早く歩くことが出来ないので、子供たちから漫々的、漫々的、めんめんちょとからかわれるのであった。そしてそのなかにかあいらしい子供、唐子をおもわせる、そんな子供も交っているのを見受けたのである。
煙雨楼
抗州から上海への帰路、嘉興の煙雨楼というのに立ち寄ってみた。
嘉興という処はちょっと島みたいになっている。私の泊った家は、外から見ると支那風になっているが、内部は日本風に適した宿屋であった。欄干は支那風にしていて、庭園に太湖|石《せき》などがおいてあった。
この宿に泊って、朝、手水を使うていると、とても巨きな鳥が人間になれて近々とやって来る。白と黒との染め分けになっている鵲である。これは支那鳥などと俗に言われている、これが沢山いた。しかし日本で見受けるような真黒の鳥もいた。
煙雨楼へゆくには自動車からおりて少し歩いて、それから船にのってゆくのだが、その船を姑娘船という。若い娘が船を漕いでゆくのもある。姑娘のきれいなのが船をこぐのだという。この船の中が彼女らにとっては自らの家なのである。生活のすべてなのである。私もその船へはいって姑娘を写生した。船の中に赤い毛布をのばして敷き、それにくるまってねるのである。狭い船を自分の家にして住まっている。船には網代の苫のようなものが三つほどあって、真中に鏡台やら世帯道具やらがおいてある。大体母と娘だが、なかには娘だけ二人住んでいるのもあった。
それら姑娘船の娘たちの中にはなかなかきれいなのもいて、パーマネントをかけたりしているが、それは日本のとはちがって支那風にそれをうまくこなしていて、支那服と髪とがよく調和を保っていた。娘たちはうっすらと化粧をほどこしている。また彼女らはいかにもきめがこまかできれいである。すべて油でいためてたべるというその風習のためなのであろうか、きめが大へん美しい。嘉興の煙雨楼は湖中の島なので景色のいいところであった。
汪精衛閣下
上海へ帰って、十三日の朝八時急行で南京へ出発したが、その日の午後三時頃着いた。南京の城内へはいって、首都飯店におちついた。それから着物を着換えて、汪精衛閣下におめにかかることになっていた。午後四時というお約束だったので早速出かけた。
汪精衛閣下の応接間は非常に広い部屋で、菊の花がとても沢山咲き匂うていた。幾鉢も幾鉢も大きな鉢植の菊が、黄に白に咲き薫っている様は実に立派なものであった。砂子地の六曲屏風に鶴を描いたのが立てられてあって、これは日本の画家の筆になるものであった。
汪精衛閣下は日本語に詳しいという話であったが、やはり支那語で話されて通訳がそれを日本語にして私に話しかけられるのであった。
「どういう風な画風をやられますか、山水ですか、人物ですか?」
私は風俗画をやると申し上げた。六十七歳というともはや七十歳にすぐということを華中鉄道の人が言ったので、大へんおどろいて居られた。
「そのお齢でこの遠いところへ、よくおいでになる決心をされた」
そう言って感心もして居られた。
私も支那語が分からなかったけれども、しかし雰囲気が至極なごやかで、ごくくつろいだお話を承わったのであった。
あちらの新聞社の写真班がそこへ来ていた。華中鉄道の人たちも記念の写真を撮ることになっていた。汪精衛閣下はその時、室内は光線が悪かろうと支那語で言って居られて、庭園の中へ出て、御自身で扉をしめられたり、陽ざしのいい明るいところへ御自身で一同を導いてゆかれるのであった。そこにもまた黄菊、白菊が咲き乱れてまことによい香りをはなっていたが、ここらがよろしかろうというので、そこで皆が並んで写真を撮影したのであった。
お話のはしはしからでも、汪精衛閣下が絵に対してもなか
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