が通ると、
「まあおはいりやす」
「それではちょっと休ませてもらいまっさ」
 といったあんばいに、通りがかりのお客さんが腰をおろすと、お茶を買う買わんにかかわらず、家で薄茶をたてて差しあげる。
「あんさんも一服どうどす」
 といってみなさんの前にお茶をはこんで行くと、ちょうどぐあいよく隣によいお菓子屋があったので、勝手知ったお茶人が、そのお菓子を買って来て同席の人たちに配って、お茶を啜りながら、腰をおちつけて世間話に花を咲かせたものである。
 江戸の床屋が町人のクラブであったように、京の葉茶屋はお茶人のクラブであったといえるのである。

 京都の商人もあの頃は優しかった。葉茶屋に限らずどのような店でも万事このようで、総親和というものが見えて買うものも売るものも心からたのしんで売買したものである。
 近ごろの商人さんはそうではない。売ってやる、買わせていただく……これでは商道地におちた感である。淋しいことである。その上に「闇」という言葉まで生まれて不正な取引きが行なわれていると聞くと、そぞろにあの頃がなつかしく思う。
 もっともあの頃と言えども不正な商人がいないではなかった。

 茶店に
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