んど湯河原温泉にお住みになっていられたが、七十九歳という高齢でおなくなりになられるまで写生はなされたと聞いている。
 私などの縮図やスケッチに駈け廻るぐらい、先生の写生に較べると物の数にもはいらないのである。

 入塾した当時は、偉い門人の方が多かったので、私は「こりゃ、しっかりやらぬと――」
 と決心をし、髪も結わずに――髪を結う時間が惜しいので、ぐるぐるの櫛巻にして一心不乱に先生の画風を学んだり、先生のご制作を縮図したりしたものである。

 写生を非常にやかましく言われただけあって、先生の塾では、よく遠方へ弁当持ちで写生に出掛けたものである。
 私も女ながら、男の方に負けてはならぬ、と大勢の男の方に交って泊りがけの写生旅行について行ったものである。

 先生も厳格なお方であった。楳嶺門下四天王の第一人者であっただけに、楳嶺先生の厳格さを身に沁みこませていられた故ででもあろうか、楳嶺先生に劣らない正姿の人であった。
 しかしまた一面お優しいところもあって、ご自分の大作を公開以前に私たちによく縮図することをお許しになられたことなど、先生の大器量を示すものと言わねばなるまい。

 栖鳳以
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