五枚も六枚もそうされる。次の日はその乾いたのをとり出して書き足す。またべたべたになる。放り出す……このようにして、五日ほどすると美事な雄渾な絵がそれぞれの構図で完成するという制作の方法であった。
あのような荒々しいやり方の先生をその後見たことはない。
刷毛を厭われたと同様に器物をつかって物の形をとることも極度にいやがられた。
たとえば月を描く場合でも太い逞しい筆をたばねて一種の腕力を以て一気にさっとかかれたものである。
当時京都画壇には今尾景年先生、岸竹堂先生、幸野楳嶺先生、森寛斎先生などの方々がそれぞれ一家をなしていられたが、景年先生なども月を描かれる時には丸い円蓋とか丸い盆、皿などを用いられて描かれていたが、松年先生は決してそのような器具は使われなかった。
「他人《ひと》はひと、私は決してそんな描法を用いない」
先生は常にそう言って、画家はあくまで筆一|途《すじ》にゆくべきであると強調された。
そういう気持ちの先生であるから物事にはこだわらないすこぶる豪快なところがあった。
毎月十五日には鈴木百年・鈴木松年の両社合併の月並会が丸山公園の平野屋の近くの牡丹畑という料
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