鼻をくんくん鳴らし下駄をコロンコロン鳴らしてあるくようになった。自分で気づかないうちに染まってしまうのである。
それで塾の者が先生と一緒に五、六人あるくと、くんくんコロンコロン、くんくんコロン……で実に賑やかなものである。
師弟の間柄ともなれば、そこまで習いこんでこそ師となり弟子ともなった深さがあるのではなかろうか。
もちろん画のほうもとことん[#「とことん」に傍点]まで師のものを身につけなくてはいけないと思う。
それから以上は、そのお弟子さんの頭の問題であって、素質のいい者は、そこまで行きその学んだものを踏台として、次に自分の画風を作ってゆく訳である。
師の中へとび込まなくてはいけない。しかしいつまでもその中にいては師以上には出られない。
――と、先生は常に弟子たちに申された。
松年塾に、斎藤松洲という塾頭がいたが、この人はクリスチャンでなかなかハイカラであった。
非常に文章のうまい人で、字も画以上にうまかった。
ほうぼうで演説をしたりして気焔をあげていたが、そのうち笈を負うて上京し、紅葉山人などと交友し、俳画で以て名をあげた。本の装幀もうまかった。
私をスケッチしたものが今でも手許に一枚あるが、松年先生の塾のことを憶うたびに思い出すひとりである。
先生は大正七年七十歳でなくなられた。
日本画壇の大きな存在のひとりであった。
幸野楳嶺先生
松年先生の塾に通っていた私は、種々の事情のもとに、ひとつはより広い画の世界を見なくてはならぬと考えたので、昔流に言えば他流を修得するために、松年先生のお許しを得て幸野楳嶺先生の塾へ通った。
楳嶺塾は京都新町姉小路にあって、当時幸野楳嶺といえば京都画壇というよりは日本画壇の重鎮として帝室技芸員という最高の名誉を担っていられ、その門下にもすでに大家の列に加っている方々もいられた。
私はそれらのえらい画家たちに伍して一生懸命に、たった一人の女の画人として研究にはげんでいったのである。
菊地芳文・竹内栖鳳・谷口香※[#「山+喬」、第3水準1−47−89]・都路華香などという一流画家を門下に擁して楳嶺先生は京都画壇に旭日のように君臨していられたのである。
同じ四条派の系統でも、松年先生の画風は渋い四条派で筆力雄渾だったが、楳嶺先生の画風は派手な四条派で、筆も柔かいものをお使いに
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